第五十一話 勅許の嵐
「朝廷が怒っています」
岩瀬がそう言ったのは、川路の執務室だった。
「孝明天皇が——勅許を与えていないという強い不満を示されている。公家の間でも、尊皇攘夷の動きが一気に広がっています」
(来た。想定通りだ。しかし——)
「岩瀬殿」俺は聞いた。「覚悟していましたか」
「していた」岩瀬が言った。「しかしここまで来るとは、思っていなかった」
その言葉が、俺の胸に刺さった。
(岩瀬は覚悟してこの交渉に臨んでいた。批判の矢面に立つことを、分かっていて動いた。しかし現実の重さが、想定を超えた)
「批判の声は」俺は聞いた。
「大きくなる一方です。『勅許なしの条約は幕府の越権行為だ』という論理で、攘夷派が声を上げ始めている。公式ではまだ問題になっていないが——」
「なります」俺は言った。「時間の問題です」
川路が俺を見た。
「対策はあるか」
「朝廷への早急な説明が必要です。条約が日本のためになることを、朝廷が理解できる言葉で伝える人間が必要です」
「誰がそれをできる」
「今のところ……難しいです」俺は正直に言った。「幕府と朝廷の間に、立てる人間がいない。橋渡しができる存在が、今の幕府にいない」
(これが問題の根本だ。幕府は朝廷を長く無視してきた。その結果、いざという時に話せる関係がない)
「攘夷派の動きはどの程度だ」川路が問うた。
「今は言葉だけです。しかし——」岩瀬が言った。「勢いがある。この勢いが藩の武士たちに広がれば、実力行使に出る者が出てくるかもしれない」
「俺たちへの影響は」
「直接的ではありません。しかし幕府の正当性が揺らげば——全ての政策が批判にさらされます。改革も含めて」
三人に静かな緊張が走った。
「岩瀬殿、今すぐ身を引く必要はありません」俺は言った。「あなたがいなければ、外交は誰もできない。批判が来ても、動き続けてください」
「分かっている」岩瀬が言った。「そのつもりだ」
「ただし——標的にはなっています。それを自覚して動いてください。一人で動かず、必ず川路様か俺に伝えてから」
岩瀬が頷いた。
「嵐の前です」俺は言った。「しかし嵐は、来る前に準備できます」
その夜、宮里澄から知らせが届いた。
「帳簿の件で、まとめた資料ができました。いつご覧いただけますか」
俺は読みながら、小さく頷いた。
(今か……しかしこれも、重要だ。むしろ今だから重要かもしれない)
嵐の中で、切り札が一枚、出来上がっていた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




