第五十話 大老への道
「老中会議で、南紀派が優勢です」
岩瀬の報告は、短くて重かった。
三人で集まっていた。川路・岩瀬・俺。阿部がいない場で、三人が集まる形が最近は当たり前になっていた。
「推薦状は届いたのか」俺は聞いた。
「届いた。しかし——」岩瀬が言葉を選んだ。「南紀派から異議が出た。『阿部様は今病床にある。この推薦状は有効か』という話だ」
「……」
「法的には問題ない。しかし政治的に、弱くなった」
川路が俺を見た。
「どう見る」
「阿部様の推薦状が政治的に弱くなったということは——南紀派が阿部様の状態を利用しているということです。そしてもう一つ」
「何だ」
「将軍家定公の容態が悪いという情報があります。後継者問題が急いで決まらなければならない状況になれば——南紀派は今がチャンスだと思っている」
岩瀬が頷いた。
「私もそう見ている。早ければ数ヶ月以内に——」
「井伊が大老になる」俺は言った。
沈黙があった。
「……止められるか」川路が俺を見た。
俺は少し考えた。
(止められるか。正直に言えば——難しい。流れがそちらに向いている。阿部様の政治力は落ちた。老中の多数派は南紀派だ。慶喜は表に出られない。将軍の容態が悪化すれば、急いで決める必要が出てくる)
「……来ると思っています」俺は言った。「嵐が」
川路が俺を真っ直ぐに見た。
「何をすればいい」
「守るべき人を、先に守ることです」
「どういうことだ」
「嵐が来る前に、嵐に飛ばされないための準備をする。守旧派が動き始めた時に、川路様・岩瀬殿・勝殿が標的にされにくい状況を今から作っておく。そういう意味です」
川路が長い間、俺を見た。
「……お前は不思議な男だ」
「よく言われます」
「嵐の内容は言えないか」
「今は言えません。しかし——こう言えます。嵐は必ず来る。その時に生き残ることが、幕府の改革を続けるための条件です」
(安政の大獄。岩瀬が失脚し、川路が島流しになる。史実ではそうなった。俺が変えられるのは——それだけだ。大老就任は止められないかもしれない。しかし三人を守ることは、まだ俺にできる)
「分かった」川路が言った。「具体的に何をする」
「三人の立場を、守旧派に攻撃されにくい形に変えていく。記録の管理、接触の記録——慎重に動く必要があります。詳しくは一つずつ」
「岩瀬、どうだ」川路が聞いた。
「神田の判断を信じます」岩瀬が言った。「ここまで間違えてこなかった」
俺は二人を見た。
(この二人が生き残れば——幕府はまだ変われる。阿部様が言った通り、川路・岩瀬・勝が揃えば)
「必ずやり遂げます」俺は言った。
窓の外で、風が吹いた。嵐の前の、静かな風だった。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




