第四十九話 井伊直弼の登場
江戸城の廊下で、俺は初めてその人物を見た。
遠目だった。しかし分かった。
背が高く、歩き方が違う。老中たちと話している姿は堂々として、周囲の空気を変えていた。着ているものは格式があり、しかし威圧的な重さではなく——「これが当然だ」という自然さで、その場を支配していた。
(井伊直弼)
俺はそっと廊下の端に引いた。
川路が横に来た。
「見たか」
「……はい」
「あれが井伊殿だ。今日は老中三名と個別に話した。何を話したかは分からないが——内容は想像できる」
「大老の件ですか」
「そうだ」
俺は遠目に井伊の背中を見ながら、頭の中で整理した。
(1858年、大老就任。同年、日米修好通商条約への強引な調印。そして安政の大獄——岩瀬が失脚し、川路が島流しになり、幕府の改革派が根こそぎ粛清される。1860年、桜田門外の変で暗殺)
分かっている。全部分かっている。しかし——。
「川路様、井伊殿はどういう人物ですか」俺は聞いた。
「単純な強権論者ではない」川路が言った。「彼は幕府の権威を絶対のものとして信じている。外国に媚びることを良しとしない。将軍家の権力を守るためなら、何でもする——そういう信念で動いている」
「信念がある、ということですか」
「そうだ。信念があるから厄介だ」川路が静かに言った。「私利ではなく、彼なりの忠誠で動いている。排除しにくい」
(その通りだ。井伊直弼は悪役ではない。強すぎる保守の論理を持った人物だ。だからこそ——改革派には壁になる)
「川路様」俺は言った。「今の段階で正面からぶつかるのは得策ではありません」
「分かっている」
「水面下での地固めを続けながら——」
「神田」川路が俺を遮った。「それは分かっている。問題は、いつまで水面下でいられるかだ」
俺は黙った。
「……お前の名前が、向こうに伝わっているかもしれない」川路が続けた。「『一橋派の中心に、謎の旗本がいる』という話が出ているという」
「神田という名前は——」
「まだ届いていないと思う。しかし時間の問題かもしれない」
(標的にされる前に、動ける状態を作っておく必要がある)
「川路様、もし俺の名前が向こうに届いたとしても——今はまだ表に出ない方がいい。俺の知識を使えるのは、舞台の外にいるうちです」
「分かっている」川路がもう一度言った。「ただし覚悟はしておけ」
「しています」
井伊直弼はもう廊下から消えていた。しかしその存在感だけが、まだ残っていた。
(いつかは正面から向き合わなければならない。しかし今ではない)
俺は静かに、その覚悟を固め始めていた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




