第五話 最初の一手
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
面白かったら評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
夜通し書いて、建白書ができた。
正確には、夜通しと翌日の半分を使った。
書いて消して、書き直して。言葉が難しかった。現代語で考えたことを、この時代の文体に落とし込む作業が想像以上に手間取る。神田伊織の身体は書き慣れているはずなのに、俺の意識が乗り移ったせいで手が止まる。
最終的に出来上がったのは、小ぶりな書状四枚だった。
書いた内容はこうだ。
一、黒船艦隊の構成と目的について。東インド艦隊司令長官ペリー提督は砲撃を目的とせず通商条約の締結を求めている。その根拠として、同提督の中国および琉球での交渉事例を挙げる。
二、今後の動向予測として。艦隊は今年十二月中に再来し、来年三月以降に本格的な通商交渉を開始するものと見られる。
三、対応策の方向性として。開国と通商は不可避であり、問題は条件をいかに有利に引き出すかである。
最後にこう一文を添えた。今後もし必要であれば、追加の情報を提供できる。
(これが全てだ。今の俺にできることはここまで)
浅羽を再度訪ね、書状を渡した。
「これを目付へ届けてください。川路様のお目に留まることを期待しています」
浅羽は書状を受け取り、眉をひそめながら「確かに」と言った。
「……十二月に、本当に来るのですか」
「来ます」
「それが的外れだったとき、神田殿は……」
「恥をかきます」俺は穏やかに答えた。「ですが、的中すれば全てが変わります。私にはそれ以外の手がありません」
浅羽は小さく頷いた。
建白書を出してからは、待つしかなかった。
待つ間、俺は浅羽から幕府内の情報を引き出し続けた。どこの誰が何に関心を持っているか。老中の中で外国問題に積極的に取り組もうとしているのは誰か。情報の流れはどうなっているか。
浅羽は最初、少し戸惑いながら答えてくれた。徐々に、「この若者は真剣に考えている」と分かってきたのだろう。話す量が増えた。
(幕府の地図が少しずつ描けてきた)
老中首座は阿部正弘。備後福山藩主、三十六歳。比較的開明的で、身分を問わず才能のある者を登用したがる人物だ。後に勝海舟を見出すのもこの人物だと、歴史書で読んだ。
その阿部への橋渡しになりうるのが川路だ。
(川路が動いてくれれば、阿部への道が開く。阿部への道が開けば——)
考えを止めた。焦りすぎていた。
江戸城下の旗本集会が何度かあった。黒船の話題で持ちきりだ。「攘夷か開国か」の議論が熱を帯びているが、誰も「具体的にどうするか」という話ができていない。
鷲尾が熱弁を振るっている。「外国船を砲撃して追い払え! 幕府が腰砕けなだけだ!」
俺は黙って聞いている。
(鷲尾の感情は間違っていない。外国に膝を屈することへの怒りは本物だ。ただし手段が現実を無視している)
「神田はどう思う」
鷲尾に水を向けられた。
「難しいですね」俺は答えた。「当面は幕府の対応を見守るしかないかと」
「回りくどいことを言うな。攘夷か開国か、どっちだ」
「私には判断する立場も情報もありません」
鷲尾が鼻で笑った。「相変わらず曖昧だな、神田は」
曖昧でいい。今は。
時間が過ぎた。
八月、九月、十月。
黒船は来ない。江戸の緊張は少しずつほぐれて、それとともに建白書のことも忘れられていくかと思われた。
十一月になって、浅羽から知らせが来た。
「上書の件ですが——取次ぎの者から戻ってきました。内容については『無役の旗本が夢想を書いた』という評価で、実質的には保留です」
「そうですか」
「笑われた部分もあったようです。特に十二月の予測については」
(想定内だ)
「しかし」浅羽が少し声を落とした。「一名だけ、お持ち帰りになった方がいるそうです」
「誰ですか」
「川路聖謨様です」
俺の中で、何かが静かに動いた。
「建白書を個人的に保管されているとのことです。理由は分かりません。ただ——」
「ただ?」
「川路様が十二月を待っているのかもしれません」
俺は頷いた。
(そうだ。川路は賭けている。十二月に本当に来るのかを)
あとは現実が証明してくれる。
俺は静かに待ち続けることにした。「今後もし必要であれば、追加の情報を提供できる」——あの一行が、川路の関心を引く鍵になることを信じながら。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




