第四話 旗本の限界
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
面白かったら評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
翌日、俺は浅羽のところを訪ねた。
浅羽五郎兵衛。父の代からの知り合いで、幕府の下級目付役を務めている男だ。年は四十代の半ばか。地味な顔立ちで、声も動きも目立たない。しかし父は「あの男は幕府の内側をよく知っている」と言っていたと、神田伊織の記憶が教えてくれる。
浅羽の屋敷は小ぶりだった。庭に出て松の手入れをしているところだった。
「神田殿。浦賀から戻ったとは聞きましたよ。ご無事で何より」
「お陰様で。少し聞きたいことがあって参りました」
浅羽は剪定ばさみを置いた。「さあ、中へどうぞ」
座敷に通されて茶が出た。浅羽が向かいに座る。
「建白書を出したいのです」
俺は単刀直入に言った。「目付を通じて、老中へ届く経路が欲しい」
浅羽がゆっくりと俺を見た。
「……建白書ですか。神田の若殿が」
「はい。黒船の件で、幕府に伝えておきたいことがあります」
「伝えておきたいこと……とは」
「今後の見通しです。あの艦隊は何を求めているか、次にどう動くか。私なりに整理したものです」
浅羽は少し間をおいた。
「老中への上書は、相応の取次が必要です。神田殿のような無役の旗本が直接届けることは、正規の経路では難しい」
「では目付に上書を出して、上に上げてもらうことはできますか」
「可能ではありますが……取り上げられる保証はない。毎日大量の書状が届いております。その中に紛れれば、読まれることなく保留になることが多い」
「それでも、取り上げられる可能性はゼロではない」
「ゼロではありませんが……」
浅羽が困り顔をした。「神田殿、上から笑われる可能性の方が高い。無役の旗本が大口を叩いた、と思われて終わることも多いのですよ」
「知っています」
俺は穏やかに言った。「笑われてもいい。取り上げてくれる一人がいれば、それで十分です」
浅羽が目を細めた。何かを考えている顔だ。
「……具体的に何を書かれるつもりですか」
「黒船の艦隊が今年の十二月に再び来ること。そして来年の三月に本格的な交渉が始まること。具体的な日時を書きます」
シンとした。
「……神田殿、その根拠は」
「長崎の情報と、西洋の外交慣習の知識です」
「十二月に来ると……断言できるのですか」
「はい」
俺は迷わず答えた。
浅羽は長い間、俺の顔を見ていた。それから小さく吐息をついた。
「……父上の縁があります。取り次ぐことを約束しましょう。ただし、笑われても私は責任を持てません」
「それで十分です。ありがとうございます」
俺が立ち上がろうとすると、浅羽が付け加えた。
「一つ申し上げておきますが——目付の上に、川路聖謨という方がいます。ご存知ですか」
川路聖謨。
知っている。幕府の中で最も複眼的に外の世界を見ようとした人物の一人だ。勘定奉行や目付を歴任し、ロシアとの交渉も経験している。史実では最後まで幕府に殉じた人だが、今は——生きている。
「存じています。すぐれた御方と聞いております」
「最近、黒船の件で特に関心を持たれているようです」浅羽が静かに言った。「もし御目に留まれば——どうなるかは、分かりませんが」
俺は深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
屋敷への帰り道、俺は空を仰いだ。
秋の雲が流れている。
浅羽の話で、幕府の文書の流れが少しだが見えてきた。上書は目付を通って取りまとめられ、内容によって関係する奉行や役人の手に渡る。大量の書状の中で大半は放置されるが、稀に「これは」と思う内容が上の目に留まることがある。
(川路聖謨が関心を持っているなら、外国情報に関する建白書は目に留まりやすい)
あとは中身の問題だ。
俺は歩きながら、頭の中で建白書の構成を組み立てた。
まず事実の提示。黒船の艦隊構成。ペリー提督の経歴と目的。交渉を求めている根拠。
次に予測。十二月の再来。来年三月の交渉開始。
そして提言。「開国は不可避です。問題は条件次第」という一行。この一行が攘夷論者には受け入れられないかもしれない。でも書く。
夜を徹して、完成させよう。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




