第三話 江戸の空気
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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翌週、旗本仲間の集まりに顔を出した。
場所は神田の近くの料理茶屋だ。五、六人が集まって、もっぱら黒船の話をしている。俺を呼んだのは鷲尾という男だった。三十手前で、俺より少し年上。体格が良く声も大きい。
「神田、浦賀にいたんだろ。実際のところ、あの船はどんなものだったんだ」
俺は正直に答えた。
「大きな船でした。蒸気機関を積んでいるので黒煙が出る。帆を使わずに動けます」
「帆なしで? そんなことが」
「可能です。機械の力ですから」
「……機械とは何だ」
俺は少し考えた。
「湯が沸くと蓋が押し上げられるでしょう。あの原理を大きくしたものです。蒸気の力で車輪を回して推進する」
鷲尾が腕を組んだ。「そんな船で来て、何のためだ」
「交渉のためです。通商を求めています。砲撃が目的なら、来た日にやっているはずですから」
「交渉なんて受ける必要はない」鷲尾がぴしゃりと言った。「外国は外国だ。追い払えばいい。それがこれまでの決まりだ」
周りの何人かが頷いた。
(やはりそうか)
俺は心の中で溜め息をついた。この反応は想定内だ。攘夷論が主流の時代だ。外国との交わりを「恥」と感じる価値観が根深い。
「難しい問題ですね」
俺は穏やかに返した。反論しない。今は。
「難しいもんか。蹴散らせばいい。幕府が腰砕けなだけで」
「じゃあ鷲尾さん、もしあの船が本当に砲撃を始めたら、私たちは何で対抗しますか」
「大砲があるだろう」
「射程が違います。海軍の火力が違います。我々の大砲ではあの船に届く前に、江戸の海岸線が灰になります」
シンと静まった。
鷲尾が険しい顔をした。「何でそんなことを知っているんだ」
「長崎のオランダ通詞を通じて入ってきた情報です。西洋の軍事技術は、私たちが思う以上に進んでいます」
「……オランダの話なんか信用できるか」
「信用しないならしなくていいです」
俺は静かに言って、茶に口をつけた。
(鷲尾は後で障害になるかもしれない。でも今はいい。今は情報を集める方が大事だ)
別の男が口を開いた。「そういえば、老中が諸藩に意見を求めているという話を聞いたが」
「ああ、建白書というやつか」
「旗本からも意見を出せると聞いた」
俺は耳をそばだてた。
「取り次ぎさえあれば、目付に提出できるそうです」
「取り次ぎ? 誰に頼めばいい」
「さあ、伝手がないと難しいでしょうな」
鷲尾が鼻で笑った。「下の旗本が何を言っても、上が聞くわけがない。書いた分の紙が無駄になるだけだ」
「そうとも限りませんよ」
俺は言った。
「あの黒船の話に本気で対処しようとしている人間が、幕府の中に一人もいないとは思えません。誰かは必ず読む。問題は誰に届くかです」
「お前、建白書を書くつもりか」
「検討中です」
鷲尾がまた笑った。今度はからかうような笑いだった。「神田も物好きだな。まあ、無駄にはなっても迷惑にはならないか。せいぜいがんばれ」
その言葉を、俺は黙って受け取った。
料理茶屋からの帰り道、江戸の町を歩いた。
夕暮れ時で、町人が忙しく動いている。魚を売る声、餅をつく音。江戸は二百万の都市だ。この時代の世界最大の都市の一つだと、確か歴史の授業で習った。
しかし今の江戸は、表面の賑わいの下に不安が流れていた。
瓦版売りが叫んでいる。「黒船の詳細、入り申した! 異国の鬼船、浦賀に現れる!」
子供が怖い顔をして親に何か聞いている。老人が心配そうに空を見上げている。
(みんな怖い。それは正しい恐怖だ。でも方向が違う。問題は、外から攻められることではない。この国が変われないことだ)
俺は思い出す。幕府が滅びた理由を、俺なりに整理したことがある。
一つ、軍事力の近代化が遅れた。
二つ、財政が慢性的に破綻していた。
三つ、情報収集能力が極端に低かった。
四つ、合議制が改革を遅らせた。
五つ、朝廷との関係をコントロールできなかった。
一つ一つは分かっている。だが、それを変えるためには、俺がまず「言葉が届く位置」に立たなければならない。
今の俺の言葉は、鷲尾の笑いで受け流されるレベルだ。
(まず届けるための仕組みだ。建白書を書こう。でも誰に、どうやって)
暗くなりかけた空に、何羽かの鳥が飛んでいった。江戸の空はまだ広い。
家に着いて、俺は灯台に火を入れた。
今夜中に、建白書の草稿を書いてみようと思った。
「12月に来る」「来年3月に交渉が本格化する」——この二つを具体的な日時で書く。それが唯一の武器だ。
俺は筆を手に取った。手がわずかに震えていた。
(これが始まりだ)
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




