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幕府は、俺が守る――1853年7月8日、浦賀沖から始まる歴史改変  作者: ヲワ・おわり


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第二話 神田伊織として

本作は全70話完結予定です。

毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。

面白かったら評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。

浦賀から江戸まで、俺は歩いた。


 陸路を行く隊列の後ろをついていく。草鞋の感触が、足の裏に馴染んでいた。不思議なことに、歩くことに困らない。この身体は江戸と浦賀の間を何度も往復しているのだろう。


 歩きながら、俺は記憶を整理していた。


 神田伊織。二十一歳。幕府直参・旗本。知行三百石。父は昨年病没。現在は無役で家禄だけが収入。母・かねと、妹・さとと、江戸の小屋敷に暮らしている。


 これが俺の現在地だ。


(三百石か)


 旗本の中では中の下といったところだ。将軍直参であることは名誉だが、役職がなければ発言権はほぼゼロに等しい。幕府の意思決定に関与できる立場ではない。


 黒船のことは、浦賀から江戸へ向かう道すがらに、もう噂として広まっていた。


「聞いたか、南蛮の鉄の船が来たそうだ」

「大砲が何十門もついているとか」

「攻めてくるのか? 江戸まで来るのか?」


 農民が立ち話をしている。町人が瓦版を囲んでいる。みなの顔に不安の色がある。


 俺は黙って歩き続けた。


(攻めてこない。今日は来ない。でも、この恐怖は正しい恐怖だ。ペリーは来年また来る。そして幕府は動揺し続け、最終的に——)


 考えを止めた。


 今考えるべきことは山ほどある。まず自分の立場を確認する。神田伊織として生きるために何が必要か。身体の記憶は動作を助けてくれるが、人間関係の記憶は断片的だ。母の名前、妹の名前は分かる。でも父の知人、旗本仲間、幕府内の伝手——それを一つずつ確かめていかなければならない。


 江戸に近づくにつれ、人が増えてきた。



 神田家の屋敷は小さかった。


 門を入ると、すぐ玄関がある。庭といえるほどの庭もない。三百石の家禄で江戸に住むとはこういうことだ。


「お帰りなさいませ!」


 引き戸が開いて、若い娘が飛び出してきた。


「さと」


 俺が呼ぶより先に、娘は俺の顔を見て止まった。


「兄上……大丈夫ですか? お顔の色が」


「浦賀で少し気分が悪くなった。何でもない」


「南蛮の船が来たと聞きました! 本当ですか? 攻めてきますか?」


 妹・さとの目が、不安と好奇心の両方で光っている。


「攻めてこない」


「どうして分かるのですか」


「交渉に来たんです。あれは砲撃のための陣形じゃない」


 さとが首を傾げた。「陣形……兄上、難しいことを言う」


 中から母が出てきた。五十代、白髪の交じった小柄な女性。かねといった。


「お帰り。無事だったのですね」


「ええ」


「黒船は……本当に砲撃してこないのですか」


「今すぐはしません。幕府に書面を届けに来ているんです。砲撃したら交渉にならない」


 かねは静かに俺を見つめた。


 その目が、何か探っているような気がした。


「……伊織、あなた、変わりましたか」


「黒船を見て、多少気が引き締まりましたよ」


「そういうことでなく」


 かねは言葉を続けなかった。でも、その目は続きを言っていた気がした。


 俺は深く追及されないうちに「着替えます」と言って部屋に引き上げた。



 夜になった。


 行灯の明かりの下で、俺は文机に向かっていた。


 神田伊織の部屋には、蘭学の書物が何冊かある。オランダ語の本も一冊あった。父が遺したものらしい。神田家は勉強好きな家系だったのかもしれない。


(いいな。この本があるなら、オランダ語の素養が多少あることにできる)


 使える設定だ。知識の根拠として。


 障子越しに月明かりが差している。江戸の夜は静かだった。遠くで犬が鳴いている。


 俺は目を閉じた。


(整理しよう。俺には何があって、何がない)


 あるもの:幕末史の知識。高校で習ったこと、自分で読んだ歴史書の内容。いつ何が起きるかという「未来」の知識。


 ないもの:権力。金。人脈。信用。役職。


 この時代で何かを動かすためには、信用が要る。信用を得るためには実績が要る。実績を作るためには、まず届く相手が要る。


(まず届ける仕組みだ。下の旗本が幕府に意見を届ける仕組みが何かあるはずだ)


 建白書。


 その言葉が頭に浮かんだ。上書、とも言う。幕府へ意見や提言を届けるための書面だ。ペリー来航直後、幕府は諸藩や直参に広く意見を募ったはずだ——確か、阿部正弘がそういう方針を取ったと歴史書で読んだ。


(そうだ。あの男が老中首座として、黒船への対応を諸藩に問いかけた。前例のない「意見の公募」だ)


 ならば、提言書を書けるかもしれない。


 ただし、それを届ける経路が必要だ。


 俺は窓の外の月を見た。


 さとが廊下を歩く音がした。戸の外から、「兄上、休まないのですか」という声がした。


「もう少し」


「最近、何か変わりましたね、兄上は」


 また同じことを言われた。


「気のせいですよ」


「気のせいではないと思います」


 さとの声は素直だった。責めているわけでも、怖がっているわけでもない。ただ正直に、「違う」と感じていた。


 俺は「お休み」と短く言った。


 さとの足音が遠ざかっていった。


 文机の上に紙を広げた。


(建白書を書こう。そのための手段を、明日から探す)


 筆を手に取った。江戸の夜は長い。

続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。

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