第一話 黒船の日
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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目が覚めたら、黒船がいた。
黒煙が、空を食いちぎるように立ち昇っている。
鉄で造られた巨大な船体。マストの高さが異様だ。そして砲門——筒の穴が、こちらへ向けて口を開けている。
俺は——どこにいる。
足元は揺れていた。木の板。船だ。小さな和船の上に、俺は立っていた。周囲に同じような船が何隻か浮かんでいる。みな幕府の旗を掲げた浦賀奉行所の役船だった。
「神田殿! 神田殿、いかがされた!」
横から声が飛んできた。若い武士が、青ざめた顔でこちらを見ている。
神田——。
俺の名前だ。この身体の。
(……ここは浦賀沖だ)
頭の中で、何かが音を立てて嵌まり込んだ。
1853年7月8日。嘉永六年六月三日。俺が何度も何度も教科書で見た日付だ。東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー。旗艦サスケハナ。蒸気外輪船、四隻。日本はこの日に向けて何も準備していなかった。
「大丈夫です」
声が出た。自分の声なのに、少し低くて、俺の記憶の声と違う。
「落ち着いてください。あの船は今すぐ砲撃してくるわけではない」
「な、何を根拠に——」
「交渉に来たのです」
若い武士が目を見開いた。
周囲を見渡す。浦賀奉行所の役人が七、八人、船上に固まっている。誰も動けていない。震えている者もいる。船べりを掴んで立つのがやっとという顔だ。
そうだろうと思う。
日本人の誰もこんなものを見たことがない。黒煙を吐きながら帆もなく進む鉄の怪物。蒸気機関の仕組みを理解している者は、この場に一人もいないはずだ。
俺を除いて。
(落ち着け。俺には何が起きているかが分かる)
全身が震えていた。それは恐怖ではなく、混乱だった。さっきまで俺は——どこにいた? 教室か、家か、道路か、思い出せない。頭が痺れている。
でも目の前の現実は疑いようがない。黒船は本物だ。潮の匂いも、木の板の感触も、袴の裾に絡まる海風も——全部本物だ。
(ならばここは1853年だ。俺は今、神田伊織という旗本として、この瞬間に立っている)
腰に刀があった。重い。身体の中に、この刀を扱い慣れた記憶がある。剣を握ったことのない現代の高校生の俺とは別の、この身体が覚えている感覚だ。
「神田殿、あの船から小舟が出てきました!」
誰かが叫んだ。
黒船の脇から、白旗を掲げた小舟が漕ぎ出てきている。乗っているのは水夫と、一人の将校だろうか。
「奉行に知らせろ!」
「交渉か、攻撃か! どうする!」
「動くな! 下手に動けば——」
役人たちが混乱して怒鳴り合いを始めた。
(史実通りだ。浦賀奉行の戸田氏栄が応対に出て、翌日にはペリーの要求書を受け取ることになる。そして幕府はその返答のために10日間の猶予を頼む。黒船は去り、12月に戻ってくる)
頭の中で、幕末の流れが繰り広げられていく。俺が知っていることが、今ここで本物の出来事として始まろうとしている。
震えは止まっていた。
代わりに、別の感情が来た。焦りでも興奮でもない。もっと静かな、重いもの。
(俺はこの先を全部知っている。幕府が動揺し、改革に遅れ、政争に敗れ、薩長に主導権を奪われ——そして滅びる。この日から15年後に、徳川は江戸城を明け渡す)
俺の先祖の話だ。
徳永家に昔から伝わる話だった。俺たちの家は徳川家の傍流の旗本の末裔だと。誇るほどのことでもないが、消えるほどのことでもない——そう親父は言っていた。
だが、その末裔である俺が今、1853年の浦賀沖に立っている。
「神田殿。指示を、指示をお願いします」
若い武士がまた呼んだ。なぜ俺に指示を求めるのかは分からない。でも——この場で唯一、何が起きているか分かっている人間に、人は縋るのかもしれない。
「全員、落ち着いてください」
俺は静かに言った。
「あの船は今日、砲撃しません。幕府へ書面を届けたいのです。奉行所に急報を入れ、上の指示を待ってください。それだけでいい」
役人たちが、半信半疑で静まった。
黒船は動かない。砲門の穴は、こちらを向いたままだ。
(俺には何の力もない。身分の低い旗本で、役職もなく、金も人脈もない。この後に何が起きるか知っていても、それを動かす手がない)
でも、知っているということは——何かできる、ということでもあるはずだ。
俺は江戸の方角を見た。見えない。でも確かに、あの先に幕府がある。幕府の上の方に、阿部正弘という老中がいる。あの人物に届く道を、俺はいつかどこかで見つけなければならない。
黒船からの小舟が近づいてくる。
白旗が風に揺れていた。
ペリー艦隊が信号旗を掲げた。日本側に交渉の意志を示す旗だ。
(俺はこの後に何が起きるかを知っている。ならば何かできるはずだ——だが今の俺には、何の力もない)
それでも、俺は動き始めることを決めた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




