第四十六話 延命の代償
「阿部様は、政務を縮小されることになった」
川路の言葉は、静かだった。しかしその重さは、ずっしりと俺に来た。
「縮小——どの程度ですか」
「老中首座の役割は維持される。しかし毎日の政務に関わることは難しい。医師の判断だ。これ以上無理をすれば——」
川路は続きを言わなかった。言わなくても、分かった。
(延命はできた。しかし)
俺は窓の外を見た。江戸の空は晴れていた。
「阿部様の政治的な影響力が——史実より早く落ちる」
独り言のように言った。しかし川路の耳に届いた。
「史実とは何だ」
「……比較の言い方です。失礼しました」俺は言い直した。「阿部様がいなければ、一橋派への根回しが難しくなる。阿部様の名前があってこそ動いていた人間が、動かなくなる——そういう懸念です」
「その通りだ」川路が頷いた。「だからこそ——神田、これからはお前が我々の中心にいてくれなければならない」
初めてはっきり言われた言葉だった。
「……分かりました」
「返事が早い」川路が静かに笑った。
「考えるより先に返事が出ました」俺は言った。「でも——本当に分かっています」
阿部から「三人を頼む」と言われた。川路から「お前が中心にいてくれ」と言われた。岩瀬が「私の動ける範囲で動く」と言っていた。
この三人を守ることが俺の仕事だ。
(延命はできた。しかし阿部様の政治力は落ちた。俺が歴史を動かした結果、予想していなかった代償が生まれた)
それを後悔するかと問われれば——しない。しかしこれが「改変の重さ」というものだと、初めて実感していた。
「岩瀬殿と三人で話します」俺は言った。「阿部様の意志をどう引き継ぐか。具体的な役割分担を決めましょう」
「そうしよう」
「それと——井伊殿の動きを改めて把握したい。阿部様が縮小された今、向こうの動きが加速するはずです」
川路が俺を見た。
「……既に動いた」
「どう動きましたか」
「彦根藩の者が老中三人のところを回った。昨日のことだ。『大老の設置が必要だ』という話を持ち込んでいる」
(来た。大老。井伊が大老になれば——安政の大獄が来る)
「川路様、急ぐ必要があります」俺は言った。「時間がありません」
「何を急ぐ」
「一橋派の地固めです。今すぐ、できることから全部やります」
川路が頷いた。疲れていたが、目は鋭かった。
「分かった。岩瀬に声をかける。明日、三人で話そう」
俺は屋敷を出た。
江戸の空は、まだ晴れていた。しかし俺の中で、嵐の予感がじわじわと広がっていた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




