第四十四話 最後の対話
阿部は——小さく見えた。
病床に横たわっている人物が、あの阿部正弘だとは、すぐには信じられなかった。顔の骨格は変わっていない。しかし体が薄くなっていた。かつて感じた重力のような存在感が、今は静かな光のように変わっていた。
「神田が来たか」
声はまだ、力があった。
「参りました」俺は畳に座った。
「そう固くなるな」阿部が言った。「今日は誰も呼んでいない。二人だけの話だ」
俺は頷いた。
「神田、俺はもう長くないと感じている」
直接だった。言い訳も、周囲への配慮もなかった。
「……そんなことは」
「嘘をついてくれなくていい」阿部が少し笑った。「お前は嘘のつけない顔をしている。いつも本当のことを遠回しに言う」
俺は何も言えなかった。
「三人を頼む」阿部が言った。「川路、岩瀬、そして勝だ」
「……勝海舟も」
「あの男は荒削りだが、本物だ。幕府の海軍を作れるのは、あいつしかいない。川路と岩瀬が制度を支え、勝が力を作る。その三人が揃えば——幕府はまだ変われる」
俺の胸の中で何かが動いた。
(この人はもう、自分がいなくなった後のことを考えている。そしてその「後」の設計が、正確だ)
「阿部様、三人は——」俺は言った。「必ず守ります」
「お前がそう言うなら信じる」阿部が俺を見た。「なぜかは分からないが、お前には何か違うものがある。川路も岩瀬も、ただの優秀な役人なら信頼しない。しかしお前たちは——先を見ている目がある」
俺は一瞬、迷った。
(言うべきか。いや、言えない。しかし——この人だけには)
「……阿部様」俺は静かに言った。「私が知っている未来を、少しだけ話してもいいですか」
阿部が俺を見た。表情が変わらなかった。
「言ってみろ」
「幕府は変われます」俺は言った。「しかしそれには時間がかかります。五年、十年——変化は遅く、痛みを伴います。でも変われる。日本は変われる。だから——どうか、もう少し体を大切にしてください。あなたがいる一年と、いない一年では、幕府の運命が変わります」
静かだった。
阿部がしばらく、俺の顔を見ていた。
「……お前は変わった男だな」阿部がゆっくりと言った。「まるで先を知っているかのように話す」
「似たようなものかもしれません」
阿部が——笑った。声には出さず、目の端が少し動いただけだったが、確かに笑った。
「そうか」阿部が言った。「それなら——頼んだぞ、神田」
「……はい」
「川路に伝えてくれ。三人を守ることと、幕府の改革を続けること——それが俺の遺志だと」
遺志。その言葉が部屋に落ちた。
「まだ遺志と言うには早いです」俺は言った。
「そうだな」阿部がもう一度、静かに笑った。「まだ早いな」
面会は短かった。
屋敷を出ながら、俺は江戸の空を見上げた。暮れかけていた。
(阿部は死ぬかもしれない。でも——まだ諦めない)
柳田の処置がある。食事の改善がある。川路と岩瀬がいる。勝がいる。澄がいる。
「できることは全部やる」
俺は静かに、しかしはっきりと、その言葉を自分に言い聞かせた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




