第四十三話 蘭方医の診立て
柳田先生は、年配の静かな人物だった。
宮里仙蔵——澄の父——の伝手で、「阿部家の財政顧問が体調を崩した知人を見舞いに来た」という名目で屋敷に入った。書類を抱え、商人風の装いをした柳田が、阿部の居間へ通された。
俺は外で待っていた。澄も来ていた。
「……緊張しますね」澄が小声で言った。
「そうですね」俺も同じくらいの声で返した。
部屋の前で、二人は静かに診察が終わるのを待った。
三十分ほどで柳田が出てきた。表情が読めない。しかし俺が「どうでしたか」と聞くより先に、彼が口を開いた。
「重篤ではありません」
俺は小さく息を吐いた。
「しかし——」柳田が続けた。「慢性的な疲弊が全身に及んでいます。消化器系にも問題がある。放置すれば、半年、一年のうちに急激に悪化する可能性がある」
「治りますか」
「処置をすれば、遅らせることはできます」柳田が静かに言った。「根本は、無理をしないことです。しかしあのご様子では——」
「説得は難しい」俺は言った。「分かっています」
「一点だけお願いがあります」柳田が俺を見た。「食事の内容を変えてほしい。今は刺激が強すぎる。胃腸に負担をかけない、消化の良いものを中心にする。それだけでも、かなり違います」
(食事療法。現代でも基本だ。それでも確実に効く)
「川路様に伝えます。藩医を通して、食事の指示が出せるよう動いてもらいます」
「難しいですね、それも」柳田が眉を寄せた。
「でもやります」俺は言った。
柳田が少し頷いてから、もう一つ言った。
「あの方、随分と長く無理をされてきた。……体だけの問題じゃない。心が先に疲れている。それがいちばん——」
柳田はそこで言葉を切った。医者として言えることの限界を知っているように。
「分かりました。ありがとうございます」
柳田が帰った後、澄が俺の横に来た。
「この件は、私と父だけが知っています。安心してください」
「……ありがとうございます」
「感謝しないでください」澄が静かに言った。「私が動きたいと思ったから動いただけです」
俺は澄を見た。
(この人はいつも、そういう言い方をする。「巻き込まれた」のではなく、「自分で選んだ」という言い方を)
「澄殿、なぜここまで——」
「理由は分かりません」澄が少し目を伏せた。「ただ……あなたが動いている理由が本物だと、そう感じているから」
短い沈黙があった。
「帳簿の仕事を始めた時、私はただの数字として動いていました」澄が続けた。「でも今は——数字の向こうにいる人が見えている。阿部様が幕府に残してきたものが、何なのか。それが少しだけ分かる気がします」
俺はしばらく何も言えなかった。
(この人の言葉は、正確だ。阿部が残してきたものの重さを、澄は数字の中から読んでいる)
「川路に報告します」俺はやっと言った。「食事の件を動かせるよう、今日中に」
「はい」澄が頷いた。
その夜遅く、川路から一言が来た。
「阿部様から直接、神田に会いたいという話が出た。一度だけ、面会できる」
俺は書状を読みながら、静かに目を閉じた。
(……今が最後かもしれない)
覚悟が、静かに固まっていった。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




