第四十二話 内部の敵
「彦根の井伊殿が——」
川路がその名前を出した時、俺は思わず息を飲んだ。
「井伊直弼が、この動きに関わっていますか」
「確証はない」川路がゆっくりと言った。「しかし状況が指し示している。老中に対する南紀派の圧力が、彦根藩を中心に動いている。彼が大老の座を望んでいることは以前から知られている——その動きと今回の通達が繋がっていると見るのが自然だ」
二人で話していたのは川路の執務室だった。
(来た。歴史が動き始めた。井伊直弼が舞台に上がってきた)
「川路様、これは阿部様を孤立させるための工作です」俺は言った。「阿部様が療養中で動けない。その間に、改革派の人脈を遮断しようとしている」
「そう見ている」
「私たちには何ができますか」
川路が少し考えた。
「私の権限では限界がある。しかし岩瀬が今、外交担当として一定の発言力を持っている。彼と連携することが一つ」
「岩瀬殿に今の状況を伝えますか」
「既に話した」川路が言った。「岩瀬は『分かった、私が動ける範囲で動く』と言っていた」
俺は頷いた。
(岩瀬、川路、そして俺。この三人が動いている。阿部様がいなくなれば、この三人だけになる——だからこそ、阿部様に少しでも長く持ちこたえてもらう必要がある)
「問題は二つです」俺は言った。「一つは阿部様の体を守ること。もう一つは、守旧派の工作を牽制すること。どちらか一方だけでは足りない」
「二正面作戦だ」川路が静かに言った。
「その通りです。現実を受け入れてやるしかありません」
「お前はそういう判断が早い」川路が俺を見た。「迷いがないように見える」
「迷っています」俺は正直に言った。「ただ、迷っている時間がないと分かっているだけです」
川路が短く笑った。
「南紀派への牽制は——どうする」
「今は直接的な圧力は避けた方がいいと思います。証拠を残せば、後で全員が危険にさらされます」
「では」
「一橋派の老中への働きかけを続けます。阿部様の意志を代弁できる声を増やしていく。それしかありません」
「地道だな」
「はい。しかし確実です」
川路が窓の外を見た。江戸の空は白く、暮れ始めていた。
「神田——お前は怒っていないのか」
「怒っています」俺は言った。「阿部様が体を壊して療養されている間に、その隙を突いて権力を奪おうとしている。怒らない方がおかしい」
「しかし顔に出さない」
「出したところで何も変わりません。怒りを使えるなら使いますが、今は使い所ではない」
川路が頷いた。
「一つずつだ」
「はい」
その夜、澄から書状が届いた。
「父より連絡がありました。蘭方医・柳田先生が、明日、非公式に参上できるとのことです」
俺は書状を静かに折った。
(一歩前進だ)
二つの戦いが同時に動いていた。内側の敵と、阿部の体——どちらも諦めるわけにはいかなかった。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




