第四十一話 蘭方医への道
「澄殿、少し聞いてもいいですか」
宮里澄が帳簿を閉じた時、俺は声をかけた。
いつもの部屋だった。財政の書類が積まれた小さな一室。澄は少し目を上げて俺を見た。
「何でしょう」
「蘭方医を——西洋式の医術を学んだ医者を、ご存知ないですか。幕府の方の治療に関わることです」
澄がしばらく俺を見た。表情が変わらない。
「父の知り合いに、そういった方が……」彼女は慎重に言葉を選んだ。「誰のことですか」
「直接は言えませんが、大事な方のことです」
静かな沈黙があった。外で誰かが廊下を歩く音がした。
「……阿部老中のことですか」
俺は一瞬、止まった。
「なぜそれが——」
「帳簿から推測しました」澄が言った。「ここ数週間、ある部署の人員配置が変わっています。老中の執務補佐に集中している。倒れた後の体制を誰かが準備している——そういう動きに見えます」
(この人の目は、数字の裏にある動きを読む)
俺は澄を見た。
「……そうです。阿部様のことです」
「分かりました」澄がすぐに言った。「父に聞いてみます」
「巻き込みたくないのですが」
「もう巻き込まれています」澄が静かに、しかしはっきりと言った。「帳簿を読み始めた時から、私はこの仕事の深い部分に入っています。今さら表面だけ見ていることはできません」
その言葉に、何かが解けた気がした。
「……ありがとうございます」
「感謝はまだ早いです。父が動けるかどうか、分かりません」澄が立ち上がった。「ただ——父はかつて、長崎で蘭方を学んだ医者と親しくしていました。今もその繋がりが生きているかもしれない」
「どれくらいで分かりますか」
「三日。早ければ二日です」
俺は頷いた。
(二日。十分ではないが、動ける。阿部の容態が今すぐ急変するという状況ではない——しかし、時間は限られている)
「澄殿」俺は言った。「一つだけ伝えます。阿部様は過労と、長年の無理が体に溜まっています。蘭方医に診ていただくとしたら、伝えてほしいのは——安静、栄養、そしてストレスの軽減の三つです。難しい話ではありません」
「ストレス」澄が繰り返した。「幕府の老中に、それができると思いますか」
「だから、せめて医者の言葉として届けたいんです」
澄が少し考えてから、頷いた。
「分かりました。父に書状を出します」
部屋を出ながら、俺は澄が言った言葉を繰り返した。
(「もう巻き込まれています」——そうだ。この人はとっくに、この渦の中にいる。俺が選んだのではない。彼女自身が選んで、ここにいる)
申し訳なさと、感謝と、その先にある何かが、俺の中でゆっくり混ざった。
翌日、川路から意外な知らせが来た。
「阿部様の病室への私的接触を控えよ、という通達が役所から出た」
「……誰が」
「非公式だ。だから誰からかは分からない」川路が静かに言った。「しかし、誰かが動いた」
(守旧派だ。阿部が弱っている今が、奴らにとって好機だ)
俺の中で冷たいものが走った。
「川路様、これは阿部様の療養を遅らせるための動きです。阿部様が動けない間に——」
「分かっている」川路が言った。「一つずつ、崩さないようにしながら対処しよう」
蘭方医への道と、内部の圧力。二つが同時に動いていた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




