第四十話 時間の重さ
「神田、お前は多くのことを同時に進めようとしすぎている」
川路がそう言ったのは、ある夕方だった。
役所の一室で、二人だけで話していた。
「分かっています」俺は言った。
「本当に分かっているか」川路が俺を見た。「ハリス交渉・阿部様の体・将軍継嗣・帳簿の謎。全部同時に頭にある。体が一つしかない人間には、限度がある」
「でも全部繋がっています。一つが崩れると全部崩れる」
「そうだな」川路が静かに言った。
短い沈黙があった。
「……そうだな」川路が繰り返した。「だからこそ、一つずつ確実に」
その言葉が、俺の中に染みた。
「今の状況を整理します」俺は言った。「ハリス交渉は一点の改善で決着した。将軍継嗣は決着していない。阿部様は倒れた。井伊が動いている」
「その通りだ」
「優先順位は——まず阿部様の延命。これが最重要です。阿部様がいなければ、他の全てが崩れます。次に将軍継嗣での一橋派支援。三番目に——」
「三番目は」
「安政の大獄の準備です」
川路が静かに俺を見た。
「安政の大獄……とは何だ」
俺は一瞬、止まった。
(言い過ぎた。この言葉は俺しか知らないはずだ。「大獄」という言葉が出てきた——)
「……守旧派による、改革派への大規模な弾圧が来るかもしれないという見立てです」
「なぜそれが分かる」
「井伊直弼が大老になれば——その可能性があります。彼のこれまでの行動から推測しています」
川路が長い間、俺を見ていた。
「……お前は時々、まるで未来を知っているような言い方をする」
「見立てに過ぎません」
「そうか」川路が小さく頷いた。
「川路様、私は——何か隠していることがあります」
「知っている」
「それでも、川路様や岩瀬殿や阿部様のために動いていることは本物です」
「分かっている」川路がはっきりと言った。「だからお前のそばにいる」
その言葉で、何かが解けた気がした。
「神田」川路が言った。「お前が阿部様に次ぐ我々の中心だ。それを自覚しなさい」
「……はい」
「急くな。しかし止まるな。一つずつ確実に積み上げろ。それだけだ」
俺は深く頷いた。
(「次に来る嵐に向けて、今から準備を始める」——それが今の俺にできることだ)
その夜、「阿部から呼ばれた」という知らせが届いた。
「最後の力を振り絞って伝えたいことがある」——川路の言葉が蘇った。
阿部が俺を呼んでいる。その意味を、俺は静かに、重く、受け取った。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




