第三十九話 将軍交代の前夜
江戸城の内外で、噂が走り始めた。
「将軍のご容態が思わしくない」
誰も公式には言わないが、誰もが知っている。俺の耳にも、同僚の役人の話し合いとして入ってきた。
十三代将軍・徳川家定。元来体が弱く、政務を十分にこなせない状態だった。その家定がさらに弱っているという。
(後継者争いが最終局面に向かっている)
城内で、南紀派の動きが活発になっていた。
彦根藩と紀州藩の者が老中のところを訪ねる頻度が増えた。「慶福様こそが正当な後継者だ」という声が、廊下でも聞こえるようになった。
俺は川路・岩瀬と集まった。
「力のある藩は一橋派に多い」俺は言った。「水戸・薩摩・越前——いずれも規模が大きく、実力がある。しかし——」
「老中の多数派は南紀派だ」川路が続けた。「政治的な実行力は老中が持っている。そこが問題だ」
「阿部様の意志はどうですか」
「病床から『一橋様を推薦する形を作っておきたい』と仰っている。ご本人の意志は変わっていない」
「ならば」俺は言った。「老中の一人でも一橋派に引き込めないか、考えてみましょう。阿部様の意志を実現するための、具体的な工作です」
「老中への政治的圧力になる」川路が言った。「それは別の問題を生む」
「分かっています。しかし何もしなければ——南紀派が勝ちます」
「それは——」川路が少し黙った。「困る」
「阿部様の意志を受け継ぐことが、今私たちにできる最善です」
岩瀬が「私が動ける範囲で動く」と言った。
三人の間に、「阿部の思いを受け継ぐ」という共通の意志が、静かに固まっていった。
「ただし」川路が言った。「無理な工作はするな。証拠が残ると、後で全員が危険にさらされる」
「分かりました」
「慎重に、一人ずつ話を聞く。それ以上はしない」
「はい」
帰り際に、川路が付け加えた。
「彦根の井伊殿が昨日、また動いたそうだ」
その言葉に、俺の背筋が走った。
(井伊直弼が大老になれば、全てが変わる。安政の大獄が来る。岩瀬が、川路が、そして俺が作り上げた人脈が根こそぎ狙われる)
俺は夜道を歩きながら、「時間が足りない。阿部が残してくれる時間が」と思った。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




