第三十八話 一橋慶喜
一橋家の屋敷は、江戸城内の一画にあった。
通された部屋で待っていると、扉が開いた。
入ってきた人物は——若かった。
二十一歳。背が高く、顔の骨格が整っている。目が——鋭い。見る目、というより、見透かす目だ。着ているものは質素だが、纏っている空気が違う。
「お前が岩瀬や川路が頼りにしている旗本か」
挨拶もなかった。
「神田伊織と申します」
「どこの誰かは関係ない。話を聞かせろ」
座れという言葉もなかった。俺は勝手に座った。
「幕府の改革について、お聞きになりたいのですね」
「そうだ。川路が『この男の話を聞いてみろ』と言った。それだけで俺は時間を使う気になった。始めろ」
俺は話した。
今の幕府が抱える問題。財政の悪化。海軍の弱さ。朝廷との関係。そして外交——ハリスとの条約で一点だけ改善できたこと、それでも残る不平等の構造。
慶喜は聞きながら、時々遮った。
「今言った関税の話だが、関税率の協議を求めた理由は何だ」
「将来の改正交渉に使えるからです。今は無理でも——」
「それは分かっている。俺が聞いているのは、なぜ今、幕府にそれをできる力がないのかだ」
(……鋭い)
「軍事力と財政力の欠如が根本原因です。交渉力は力の裏付けがないと機能しません。海軍を持ち、経済を立て直すことが先決です」
「だからこそ海軍伝習所を作ったと」
「はい」
「なぜ薩摩を入れた」
俺は少し驚いた。そこまで調べていたのか。
「排除すれば独自に学ぶ。一緒に学ばせてコントロールする方が得策と判断しました」
「甘い」慶喜が即座に言った。「薩摩は利用するが、幕府の命令には従わない。そういう組織だ」
「仰る通りです。しかし今は協力関係を維持した方が、対立より得るものがある」
「一時的な協力と言いたいのか」
「そうです」
慶喜が少し口端を上げた。笑ったのか、それとも何かを計算しているのか、分からない。
「面白い。だが一点だけ言わせてもらう」
「はい」
「幕府の改革は、幕府が主導すべきだ。薩長に動かされてはならない」
その言葉が、部屋の中に落ちた。
「……全くそう思います」
「それが分かっているなら——よし。また来い」
面会は終わった。
「また来い」という言葉だった。
(「史書では最後の将軍として見知った顔が、今ここにいる」——そう思いながら、俺はこの人物をどう使えるかという冷静な計算と、「この人の有能さは本物だ」という認識を同時に持って屋敷を出た)
「慶喜様は——どうだった」川路が外で待っていた。
「有能です」俺は正直に言った。「扱いにくいですが」
「そうか」川路が小さく笑った。
「南紀派を何とかしなければ、慶喜様は将軍になれません。井伊直弼が動いている限り——」
「分かっている」川路が静かに言った。「一つずつだ」
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




