第三十七話 後継者問題
阿部が倒れた翌日から、城内の空気が変わった。
誰もが何かを窺うような目をしている。廊下で人が集まってひそひそと話している。
(権力の空白が生まれた)
老中首座が動けない。それだけで、幕府内部の力学が一気に動き始める。
川路が俺を呼んだのは、その日の夕方だった。岩瀬もいた。
「将軍継嗣問題が噴出している」川路が言った。「徳川家定公の体が弱いことは知っての通りだ。その後継者を誰にするかという争いが、ここへ来て表面化した」
「一橋派と南紀派ですね」
「お前は知っていたのか」
「噂として聞いていました」
川路が岩瀬と顔を見合わせた。
「一橋家の慶喜様を推す派と、紀州家の慶福を推す派に分かれている。一橋派には水戸・薩摩・越前など力のある藩が多い。しかし老中の多数派は南紀派だ」
「どちらが政治的に正しいですか」
「お前はどう思う」
俺は考えた。
(史実では南紀派が勝って慶福が14代将軍・家茂になる。そして15代が慶喜で、最後の将軍になる。もし歴史を変えるなら——)
「慶喜様の方がよいと思います。能力の面では間違いなく優れています」
「私もそう思っている」川路が頷いた。「ただし——慶喜様に直接会ったことがない」
「一度、お会いしてみたいと思います」
「岩瀬はどうだ」
「私も会いたい」岩瀬が言った。「噂には聞いているが、実力は会って確かめる必要がある」
「では周旋しよう」川路が言った。「ただし——南紀派も動いている。彦根・紀州が連携して老中に圧力をかけている」
「南紀派の中心は」俺は聞いた。
「彦根の——」川路が少し間を置いた。「井伊直弼だ」
俺の中で、何かが冷たくなった。
(来た)
井伊直弼。1858年に大老に就任し、安政の大獄を主導した人物だ。改革派を根こそぎ粛清する——岩瀬も川路も、その危険にさらされる。
「……井伊様が動いているのですね」
「そうだ。神田、お前は知っているか」
「名前は聞いています。彦根藩主です」
「それだけか」
「それ以外には」俺は答えた。
(全部言えない。でも知っている。あの人物が大老になれば、幕府内の改革派が潰される。阿部が作り上げた開明的な路線が、一気に巻き戻される)
「阿部様の意志は変わっていない」川路が言った。「病床から『私が元気なうちに、一橋様を推薦する形を作っておきたい』と仰っている」
「阿部様がそれを望んでいるなら——私たちにも動ける根拠があります」
「その通りだ」川路が言った。「一橋様との面会を設定しよう」
岩瀬も頷いた。
(井伊直弼という名前が、南紀派の影として大きくなってきている。川路が「彦根の井伊殿が動いている」と言った時の声に、緊張の色があった)
俺は歩きながら、「一橋慶喜という最後の将軍に、今から会う」という奇妙な感覚を抱えていた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




