第三十六話 阿部倒れる
急報が来たのは、早朝だった。
「阿部老中が倒れられました。執務不能の状態です」
俺はその言葉を聞いた瞬間、全身が冷たくなった。
(来た。最悪の事態が)
着替えも早々に、川路のもとへ走った。
役所に着くと、川路はいた。珍しく落ち着いていない顔をしていた。
「神田」
「容態は」
「発熱と激しい倦怠。以前から無理をされていたのが、一気に出た。藩医が診ているが——」
「蘭方医に診てもらえますか」
「老中のご病気を外科の医者に……それは難しい」川路が首を振った。「身分上の問題もある」
「難しいのは分かっています」俺は言った。「でも、長崎で繋ぎを作った蘭方医の松岡先生がいます。彼はオランダ式の診察ができます。書状を送れば来てくれるかもしれない」
「阿部様ご自身が『大丈夫だ』と言って聞かなければ、私たちには何もできない」
「……説得はできないのですか」
「あの方は頑固だ」川路が疲れた声で言った。「体が悲鳴を上げても『まだできる』と言う人間なんだ、昔から」
俺は少し考えた。
「川路様、少なくとも一つだけお伝えください。今の状態で一番大事なのは——安静と、栄養と、ストレスの軽減です。三つだけ。難しい話ではありません」
「……言葉にすれば簡単だが」
「藩医に伝えてもらえますか。過労が主原因です。まず休むことが最重要です。政務は他の者が代行する」
「代行とは簡単に言うが——阿部様でなければ動かないことも多い」
「でも、今動かなければ、阿部様が——」
俺は途中で止まった。
「……失礼しました。先を急ぎすぎました」
川路が俺を見た。目に何かがあった。
「神田」川路が静かに言った。「一つ伝えることがある。倒れられる前、阿部様が川路に『最後の力を振り絞って伝えたいことがある』と言われた」
「何を」
「詳しくは分からない。しかし——阿部様はお前に話したいことがあるらしい」
俺の中で何かが揺れた。
「私に——」
「まだ会えるかどうか分からない。しかし阿部様が望んでいる」
川路の言葉を、俺はしっかりと受け取った。
表御殿を後にして、俺は江戸の空を見上げた。
白い空だった。
(「どこまで私的に介入できるか」という問いがある。しかし阿部の体が本当に危ういなら、それを悠長に考えている場合ではない)
「できることを提言する」という冷静を保ちながら、「それでも届くかどうか分からない」という無力感が俺の中を走った。
外の敵と内の問題が同時に来た——阿部倒れる、将軍継嗣問題が噴出する。
「どちらから手をつけるか」は、もはや問いではなかった。どちらも同時にやるしかない。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




