第三十四話 最後の抵抗
「試みた」
岩瀬が帰ってきたのは夕方だった。
「治外法権の範囲限定案を、交渉の場で主張しました」
「ハリスの反応は」
「最初は強く反発した」岩瀬が言った。「しかし——」
「しかし?」
「『開港場内の外国人が日本人と争った場合』という解釈の限定には、同意の余地があると感じました。ハリスが言葉を濁したのです」
「言葉を濁した」
「完全な拒否ではなかった。『検討の余地がある』という態度だった」
俺の中で何かが動いた。
(一点だけ、動かせるかもしれない)
「関税の協議権は」
「そちらは——」岩瀬が言葉を探した。「妥協の余地なし、という反応でした。関税と最恵国待遇については、ハリスのラインが明確でした」
「そうですか」
「ただし」岩瀬が俺を見た。「お前の言っていた通りになっている。治外法権の一点に集中することで、向こうも少し軟化している。全部を守ろうとしていたら、全部失っていたかもしれない」
「岩瀬殿、守旧派の圧力はどうですか」
「強くなっている」岩瀬が率直に言った。「昨日も同僚から『なぜそこまで妥協するのか』と言われた。『岩瀬忠震は信用できない』という声も出ている」
「……申し訳ありません」
「お前のせいじゃない」岩瀬が短く言った。「俺が判断してやっていることだ」
しばらく沈黙があった。
「神田」岩瀬が言った。
「はい」
「お前の言う通りにやってみる。治外法権の範囲限定、この一点を取りに行く。関税は今回は諦める。それが正しい判断だと思う」
「はい。それが最善だと思います」
「責任は俺が取る」
その言葉が、部屋の中に落ちた。
(「責任は俺が取る」——岩瀬忠震が、俺のために背負ってくれている)
俺は少しだけ、胸の奥に重いものを感じた。
「岩瀬殿」
「何だ」
「後で——守旧派が岩瀬殿を標的にすることがあれば、私は必ず動きます」
岩瀬が俺を見た。
「何故そんなことを言う」
「思っていることを言っただけです」
岩瀬がしばらく無言で俺を見ていた。
「……お前は変な男だな」
「よく言われます」
「まあいい」岩瀬が立ち上がった。「明後日、最終交渉がある。治外法権の範囲限定——これを取ってくる」
「よろしくお願いします」
「次の交渉が終わったら、一杯付き合え。お前と飲んだことがないな」
「喜んで」
岩瀬が出ていった後、俺は部屋に一人残った。
条約調印が間近に来ていた。
(「史実より少し良くなれる。それで十分だ」——しかしその後には、阿部の体の問題がある。そちらも待ったなしだ)
俺は次の優先事項へ、静かに意識を移し始めていた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




