第三十三話 朝廷の影
川路から呼ばれたのは、ハリス交渉の最中だった。
「神田、少し話がある」
川路の顔が、珍しく困っていた。
「朝廷が外交問題に関心を持ち始めている。阿部様からの情報だ」
「どういう意味ですか」
「孝明天皇が、外国との条約締結に強く反対されているようだ。『異国との約束は許さない』という意志が朝廷から出てきている」
俺は息を飲んだ。
(来た。勅許問題だ)
史実では、1858年に安政条約が朝廷の勅許なしで締結されたことが、後の幕府への攻撃の口実になった。「天皇の許可なく勝手に外国と条約を結んだ幕府」という批判が、倒幕運動の正当性の根拠になっていった。
「川路様、これは非常に重要な問題です」
「分かっている。だからお前を呼んだ」
「朝廷を完全に無視するのは危険です。しかし朝廷に全権を渡すのも危険。外交の決定権が朝廷にあるということになれば、攘夷感情が強い孝明天皇の意志で条約が壊れます」
「だから、今のうちに朝廷対策が必要だと」
「はい。幕府が朝廷と定期的に話し合う仕組みを作ることが先決です。外交方針について、事前に朝廷に相談し、理解を求める——そうすることで、後から『勅許なしで決めた』という批判を防げます」
川路が腕を組んだ。
「それは公武合体という考え方に近い」
「はい。幕府と朝廷が協調する形を作る」
「しかし」川路が慎重に言った。「それは幕府の権威を弱めるという反論がある。老中の中には『朝廷に相談したら、朝廷の言いなりになる』と言う者もいる」
「弱めるのではなく、正当性を強化するのです」俺は言った。「朝廷の理解を得た上で動けば、後から誰も文句を言えません。今、権威の問題で幕府が批判される構造を変えることが目的です」
「……理屈は正しい」川路が言った。「しかし政治的に実現するのは難しい。老中の間に意見の対立がある」
「今すぐ全員に理解してもらわなくていいです。阿部様が動いてくれれば、それで十分です」
「阿部様は……今は休養中だ」
俺は黙った。
(ハリス交渉を最優先にしていたが、朝廷問題と阿部の体の問題が両方から押してきている。全部は一度にできない)
「川路様、今は一つずつやるしかないですね」
「その通りだ」川路が静かに言った。「今はハリス交渉を終わらせろ。朝廷問題はその後だ。ただし——忘れるな。この問題は必ず返ってくる」
「忘れません」
(「勅許なしで条約を結ぶと、後で倒幕の口実になる」——この事実を、俺は誰よりもよく知っている)
「分かりました。今は交渉を終わらせます。しかしその直後に朝廷対策を動かします」
川路が頷いた。
「それでいい。急ぐな、しかし忘れるな」
俺は「はい」と言って立ち上がった。
「治外法権の範囲限定——これが次の交渉での最後の抵抗ラインです。岩瀬殿と話し合います」
「頼んだ」川路が言った。
俺は部屋を出た。夜の廊下が静かだった。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




