第三十話 阿部の疲弊
翌朝、俺は江戸城の表御殿へ向かった。
廊下を案内されながら、「阿部様のご都合があまりよくないので短めに」と役人に言われた。俺は「分かりました」と答えた。
部屋に入った。
阿部が正面に座っていた。
(……深刻だ)
顔色が違う。前回会った時より、明らかに悪い。頬が少し落ちている。目の下にも影がある。
「神田か。長崎から戻ったと聞いた」阿部が言った。声は穏やかだ。しかし音量が以前より低い。
「はい。お土産代わりに報告書を持参しました」
「川路から聞いた。よくやった。海軍伝習所が動き始めたこと、嬉しく思う」
「ありがとうございます」
「長崎で何を感じたか、簡単に話してほしい」
俺は話した。伝習所の様子。出島のオランダ人との情報交換ルート。長州の動向。そして「ハリスへの対応を急ぐべき」という提言。
阿部が聞きながら、時々頷いた。
「よくやった」阿部が言った。しかし——声の中に力がない。
「……阿部様、お体のご様子は」
一瞬、阿部の目が揺れた。
「少し疲れているだけだ」
「お休みになれていますか」
「政務がある。休む時間はなかなか——」
「お体が最優先のはずです」俺は言った。
阿部が俺を見た。少し驚いたような目だ。
「お前は……正直なことを言うな」
「失礼しました。でも——」
「いや、いい」阿部が小さく笑った。「言ってくれる者の方が少ない。川路もいつも心配しているが、遠慮して言わない」
俺は続けた。
「蘭方医の先生に診ていただく機会はありますか。長崎で蘭方医の方と繋がりを作ってきました。西洋式の診察を受けることを——」
「分かった」阿部が言った。「考えてみよう」
「本当ですか」
「約束はできない。しかし考える」
面会が終わって、俺は川路と連れ立って廊下を歩いた。
「阿部様は本当に大丈夫なのですか」
「……我々も心配している。しかしご本人が『大丈夫だ』と言われる。無理に止めることはできない」
川路の声に無力感がにじんでいた。珍しいことだった。
「川路様、蘭方医への繋ぎを作ることはできますか」
「お前が動けば動けるかもしれない。ただし——阿部様が拒否されれば、それまでだ。身分の問題もある。老中の健康問題に下の者が介入することは」
「難しいのは分かっています」
「分かっているなら」川路が少し厳しい顔で言った。「焦るな。焦ると逆効果になる」
俺は頷いた。
表御殿を出て江戸の空を見上げた。冬が来ていた。
(1857年。あと一年ほどしかない。史実通りなら、阿部は来年の六月に死ぬ。今から何が、できる)
一度に全部は救えない。でも諦めない——そう思いながら、俺は次の手を考え続けた。
阿部を助けることと、ハリス交渉への準備と。「どちらも諦めない」——その重荷を両肩に乗せたまま、俺は歩き始めた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




