第二十九話 江戸帰還
江戸に戻ったのは、長崎を出て十二日後だった。
神田の屋敷に着くと、母のかねが出てきた。
「お帰りなさい。お疲れでしょう」
「ただいま」
「顔が少し黒くなりましたよ。旅の日焼けですか」
「日差しが強かったです」
妹のさとが廊下から顔を出した。「お土産は?」
「後で。まず着替えます」
一刻も休まず、俺は川路のもとへ向かった。
川路は役所で待っていた。
「帰ったか。報告書を見せろ」
「はい」
俺は長崎での活動をまとめた書状を出した。川路が素早く読む。
「海軍伝習所は順調か」
「はい。史実より一年早い設立が実現しました。教官陣はオランダから来ており、技術レベルも問題ありません。生徒の訓練も始まっています」
「薩摩が参加しているという話が来ていたが」
「三名おります。長州も参加希望が来ています。核心技術は共有しないという方針で、基礎訓練は一緒に行う形にしました」
川路が少し眉を上げた。「それはお前が判断したのか」
「勝殿と相談しました。その後で川路様に報告すべきでしたが——先に動いてしまいました。異存がありましたら訂正します」
「いや、その判断は正しい」川路が言った。「排除すれば彼らは独自に学ぶだけだ」
岩瀬が部屋に入ってきた。「神田、帰ったか」
「ただいま戻りました」
「ハリス対策の議論に参加してくれ。幕府はまだ腰が重い。あいつをどう扱うかで意見が割れている」
「どう割れているのですか」
「『会うな』という意見と、『会って条件を引き出す』という意見だ」岩瀬が端的に言った。「前者は守旧派。後者は実務派。今のところ前者が勢力を持っている」
(史実では幕府は最終的にハリスと交渉する。しかし時間を無駄に使う。今からでも準備を始めれば、条件を少しはマシにできる)
「会う方向で動いた方がいいです」俺は言った。「会わなければ、ペリーの時と同じことになります。圧力が強くなって、最悪の条件で受け入れることになる」
「それを攘夷派に言ってみろ」岩瀬が苦笑した。
「岩瀬殿が言ってください。私が言っても重みがない」
「そうだな」
川路が俺を見た。
「神田、一つ言っておく。帰ってきたか。実は阿部様の様子が少し気になっている」
俺の心臓が少し速くなった。
「どのように」
「顔色が以前より悪い。無理をしている感じが増している」
「詳しく聞かせてください」
「それは明日でもいい。今日はゆっくり休め。明日の午前中に阿部様に会う機会を作った」
俺は「ありがとうございます」と頭を下げた。
帰り道、澄からの書状が届いていることを浅羽から聞いた。「帳簿にまた変な動きがありました。詳しくお話ししたい」という内容だった。
(複数の課題が同時に動いている。しかし今は優先順位をつける)
ハリス対策が最優先。帳簿の件は次。阿部の体のことは——明日の面会で確かめる。
眠れない夜になった。川路の「顔色が以前より悪い」という一言が、ぐるぐると頭の中を回り続けた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




