第二十四話 帳簿の影
澄に会う機会を作るのに、三日かかった。
勘定奉行所に「財政報告書の件で確認したいことがある」という名目で訪ねた。澄が父の補助として来ていた。
父の仙蔵が席を外した短い時間を使って、俺は澄に声をかけた。
「先日の件——帳簿が変だとおっしゃっていましたね」
澄が少し目を見開いた。
「……覚えていてくださったのですか」
「気になりました。もう少し教えていただけますか」
澄が周りを見た。他に人がいないことを確認して、俺に向き直った。
「これを私が言っていいのかどうか……」
「言っていただけると助かります」
しばらく迷う顔をした後、澄が帳簿を開いた。
「ここです」澄が指を一点に置いた。「毎月、一定の金額が『雑費』として出ています。金額は小さくない」
「……どれほどの額ですか」
「百両前後です。毎月」
「一年で千二百両か」
「はい。しかし——」澄が少し眉を寄せた。「普通、この規模の雑費には用途の明細が添付されます。今回はない」
「明細なしで百両が毎月出ている」
「です。父に聞いたこともあるのですが、『上の方のご指示だ』と言うだけで、具体的な用途は教えてくれませんでした」
(これは財政不正の可能性がある)
俺は即座にそう判断した。しかし顔には出さなかった。
「上の方というのは、具体的にどの方のお名前が」
「書状には名前がありませんでした。ただ——承認の印が、勘定奉行所の上位の方のものでした」
「その方のお名前は」
「上田様というお方です」
知らない名前だった。
「それ以上は」
「分かりません」澄が少し困った顔をした。「私が調べられる範囲では、ここまでです」
俺は少し考えた。
「お願いがあります」
「はい」
「引き続き、この件を記録しておいてください。金額、日付、承認印の名前——全部。そして私以外には話さないでほしい」
澄が俺を見た。真剣な目だった。
「……信頼して、よいのですか」
「信頼してください。この件は慎重に動きます。ただし、証拠が必要です。記録してもらえれば助かります」
澄がしばらく考えた。
「……分かりました」
「もう一つ聞いていいですか」
「はい」
「お父上は、この件の詳細を知っていると思いますか」
澄の目が揺れた。一瞬だけ。
「……父も、知っているかもしれません」
その答えは、予想より複雑な問題が奥に潜んでいることを示していた。
(父・仙蔵は何を知っているのか。なぜ口をつぐんでいるのか)
父の仙蔵が戻ってきた。俺は普通の顔で「ありがとうございました」と言って、その場を収めた。
(今は証拠を集める段階だ。動くのはその後だ)
翌日、川路から長崎への出張命令が来た。
「海軍伝習所の視察と、情報収集が名目だ。いつ行けるか」
「来週には出られます」
(今の江戸を離れたくない——そう思いながら、俺は「長崎には長崎でしか得られない情報がある」とも判断した)
帳簿の謎は、俺が戻るまで待ってもらうしかない。澄に「しばらく時間をください」と書状を送った。
長崎への旅の準備をしながら、俺は「帳簿の影の正体は何か」という問いを、頭の隅に置き続けた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




