第二十二話 財政の底
幕府財政報告書を読んだのは、出仕して三日目だった。
川路に「見ていいか」と確認して、許可をもらった。「どうせ全部覚えるつもりだろう」と川路は言った。
机に厚い書類の束を広げた。
(……これは)
数字が並んでいる。
歳入と歳出。幕府の年間収入は、ざっくり計算して八十万両前後。しかし支出がそれを上回っている。差額は毎年赤字で、それを貯蔵の金銀で補填し続けている。
(思ったより深刻だ)
歳出の内訳を見ると——旗本・御家人への給与(禄)が最大の出費だ。幕府に仕える直参が何万人もいる。その全員に石高に応じた禄を払い続けている。これが固定費として動かせない。
軍備費は低い。海軍はほぼゼロだ。陸軍も幕末の基準では薄い。
インフラ投資もほぼない。
(このままでは、海軍建設の費用が出ない。長崎伝習所だって、本格的に動かすには相当な資金が要る。阿部様がどこから捻り出すつもりなのか——)
別の報告書を取り出した。勘定奉行所関係の資料だ。
金・銀の流出が止まらないという記述が目に入った。外国との取引で、日本の金銀が流れ出している。金と銀の比率が日本と外国では異なるため、外国商人が日本で金を安く買えてしまう——というメカニズムだ。
(これは史実通りだ。明治以降に激しくなる問題だが、もう始まっている)
「そんな報告書を一生懸命読んでいるのか」
山田が通りかかって声をかけた。
「毎年変わらない。どうにもならん」と山田が続けた。少し憐れむような口調だった。
「何かできることがあるはずです」
「……神田殿は若い。今に分かりますよ、幕府の財政は誰にもどうにもならないということが」
山田が行ってしまった。
(諦観だ。それが組織の一番の病気だ)
俺は報告書に戻った。
三つの方向性が頭にある。
一つ、貿易関税収入の確保。開国して貿易を始めれば、輸入品に税をかけることができる。これを財政収入にする。
二つ、参勤交代コストの軽減。諸藩が毎年江戸と国元を行き来する制度は、藩の財政を削るだけでなく、幕府の管理コストも上げている。これを緩和できれば、諸藩の活力も上がる。
三つ、国内産業振興。西洋の技術を取り入れて、輸出できる産品を作る。
(ただし、どれも「今すぐ」は難しい。財政改革は数年単位の話だ)
ページを繰っていると、ある文書が目に留まった。
「宮里某より提出された試算」
名前だけが記されていて、内容は簡潔だが精度が高い。誰だろう。
山田に「宮里という名前の者を知っていますか」と聞いてみた。
「ああ、勘定奉行所の宮里仙蔵殿のことかな。帳簿の仕事が細かいことで有名な方です。一人娘が帳簿管理を手伝っているとか」
「娘が……ですか」
「珍しいでしょう。でも勘定奉行所の中では、宮里家の帳簿は一番信頼できると言われています」
俺は「そうですか」と答えた。
(宮里仙蔵と、その娘——財政改革を進めるなら、この人物に繋がる必要がある)
報告書を閉じながら、「財政改革の専門家に繋がる必要がある。そのための伝手を作ろう」と俺は決めた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




