第二十話 阿部正弘との対面
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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江戸城の表御殿に入ったのは、生まれて初めてのことだった。
重厚な廊下を歩く。足音が妙に響く。案内の役人が前を歩き、俺は後ろをついていく。
(落ち着け。俺は何度も頭の中で今日の話をした。準備はできている)
通された部屋は広くなかった。しかし整えられていた。
川路が先に来て座っていた。
そしてもう一人——正面に、一人の武士が座っていた。
三十六歳。顔は整っているが、どこか疲れている。目は鋭く、しかし温かみがある。着物の質はいいが、飾り気がない。
阿部正弘だ。
「神田伊織か」
「はい。参上いたしました」俺は深く頭を下げた。
「座れ。時間が限られている。聞かせてほしい」
短い言葉だった。しかし圧迫感はない。
「海軍改革計画をお持ちしました」俺は書類を差し出した。
「川路から既に読んだ」阿部が言った。「聞きたいのは、なぜそれが必要かという理由だ。政治的な判断をするためには、技術の話より理由が必要だ」
「はい」
俺は話した。
幕府が海軍を持たなければどうなるか。十年後、二十年後の日本の姿。西洋列強がアジアで何をしてきたか。中国で何が起きたか。そして今、日本が同じ道を辿りつつあること。
阿部が途中で遮った。
「中国の件は知っている。しかし日本と中国は違う」
「どう違うと思われますか」
阿部が少し目を細めた。「君は逆に問うのか」
「お考えを聞かせてください。私の見立てを修正できるかもしれません」
阿部がわずかに口端を上げた。「……日本は鎖国をしてきた。中国ほど開いていなかった。そのため、まだ時間がある」
「時間はあります。しかし短い。三年後から五年後に、本格的な通商条約の交渉が来ます。その時に海軍がなければ、完全に弱い立場で交渉することになります」
「海軍があれば交渉力が上がる、か」
「はい。直接戦うためではなく、選択肢があることを相手に見せるためです」
阿部が静かに聞いていた。
「長崎海軍伝習所について。前倒しで開設することを考えよう」
その言葉が、部屋の中に落ちた。
(承認された)
「ありがとうございます」
「礼は結果が出てからにしてほしい。それと——」阿部が俺を正面から見た。「神田、君に頼みたいことがある」
「はい」
「幕府の今後について、もっと詳しく聞かせてほしい。川路を通じてでよい。定期的に見立てを教えてくれ」
「喜んで」
面会が終わって、俺は川路と連れ立って表御殿を出た。
「どうだった」川路が聞いた。
「……緊張しました」
「見えなかった」
「内側だけです」
川路が静かに笑った。
「阿部様は認めた。それは確かだ。次も来てよいと仰った」
俺は歩きながら、阿部の顔を思い出した。
整った顔立ち。しかしどこか。
「川路様」
「何だ」
「阿部様は……お顔の色が、少し悪くなかったですか」
川路が歩きながら少し間を置いた。
「……多忙すぎる。藩の業務も加わって、休む間もない状態が続いている」
「深刻ですか」
「今すぐは、ない。しかし——」
川路が言葉を止めた。続かなかった。
俺は黙って歩き続けた。
(1857年。三年後に阿部は急死する。今のうちに何かができるか。何か——)
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




