第十六話 部分的な勝利
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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「締結された」
岩瀬が来た時、最初にそれだけ言った。
嘉永七年(1854年)三月三日。日米和親条約。
俺は「そうか」と静かに言った。
「下田と箱館を開港する。ペリーが望む最低限は満たした」
「最恵国待遇条項は」
「入った」岩瀬が短く言った。「ただし——一箇所だけ変えられた」
「どこを」
「最恵国待遇の適用範囲に、『協議の余地を残す』という文言が入った。完全な撤廃ではないが、後の改正交渉で使える余地ができた」
俺は岩瀬の顔を見た。
「……よくやった」
「お前のおかげだ」岩瀬が言った。「あの双務化の要求を記録に残したことで、向こうも条件を少し柔らかくした。完全ではないが」
「完全である必要はありません」俺は言った。「一歩でも変われれば、次の一歩が打てます」
岩瀬が笑った。「お前は……変わった男だな。普通の旗本なら、ここで『残念だ』と落ち込むか、あるいは『やったぞ』と喜ぶかどちらかだが」
「喜んでもいます。落ち込んでもいます。でも次のことを考えています」
「次というのは」
「ハリスが来ます」俺は言った。「タウンゼント・ハリスという米国の外交官です。二年後か三年後に日本に来て、今度は本格的な通商条約を求めてきます。そちらの方が、今回よりはるかに難しい交渉です」
岩瀬の顔が引き締まった。
「……どのくらい難しい」
「今回は『港を開けるかどうか』だった。次は『どんな条件で貿易するか』という交渉です。関税・治外法権・居留地——全て出てきます」
「治外法権とは」
「外国人が日本国内で犯罪を起こしても、日本の法で裁けなくなる仕組みです。外国人は自国の法で裁かれます」
岩瀬が静かになった。
「それは……屈辱的だな」
「史実では日本は長く苦しみます。だから今から準備しなければなりません」
「二年後、か」
「はい。しかし来る前から対策を練れます。俺には見立てがある」
その時、川路から使いが来た。書状を持ってきた。
川路の字で短く書いてあった。
「阿部様より。神田の見立ては正しかった。会おう」
俺は書状を手に持ったまま、動けなかった。
(会おう)
阿部正弘が直接、俺に会おうと言っている。
岩瀬が横から書状を見て「……お前、やったな」と言った。
「やりました」俺は静かに言った。
「感情ないのか」
「あります。ただ……次のことも、もう考えています」
岩瀬が苦笑した。「相変わらずだ。まあいい。おめでとう、神田」
俺は深く息を吸った。
(阿部正弘と直接会える。ここからが本当の始まりだ)
だが同時に、もう一つのことが頭にあった。
阿部と会う前に——もう一人の本物と会っておきたい。
勝海舟という名前が、俺の頭に浮かんだ。
次はその人物と会う番だ。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




