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第9話 終電一本前の歯


 先月、みゆきは四十歳になった。

 その誕生日の夜、岡崎は出汁から味噌汁をひきながら、得意げにこう言った。

「知ってるか。お前、もう青年ちゃうねんで」

 みゆきは箸を止めた。

 岡崎は三十九歳。青年会議所に入っている。あそこは四十歳になると卒業させられる。つまり世の中の定義では、四十歳はもう青年ではない。岡崎はそれを、ここぞとばかりに語り出した。

「四十歳ってのはな、おじさんとおばさんの境目なんや。俺はまだ三十九やから青年。お前は四十やから……まあ、こっち側やな」

 みゆきは味噌汁をひとくち飲んでから、静かに言った。

「宮古島」

 岡崎は黙った。

 その夜の講釈は、そこで終わった。岡崎は、自分が一年後には同じ四十歳になることを都合よく忘れていた。そして誕生日の女にそれを言う、という致命的なミスを犯したことにも、最後まで気づかなかった。

 ついでに言っておくと、みゆきは自分のことをけっこう美人だと思っている。それも和風美人だ。洋風ではない。涼やかな目元と、品のいい鼻筋。本人比で。だから「おばちゃん」という単語には人一倍敏感だった。岡崎がそれを口にした日には、家庭内の気温が五度は下がる。

 ──と、まあ、それが先月の話。

  ◇

 今夜の話をする。

 その夜の新京成線は、いつもより酔っ払いの密度が高かった。

 みゆきの斜め前に、かなりできあがった中年の男が座っていた。顔は赤い。一人で何やら上機嫌に、ぶつぶつ喋っている。完全に一人の宴だった。

 電車が動き出してしばらく。男は機嫌よく立ち上がった。誰に言うともなく「俺はなぁ!」と宣言した。「俺は、なぁ!」。続きはなかった。

 そこで電車がカーブに差しかかった。

 車両がぐらりと傾いた。

 男は座席を外した。

 彼の体は見事な放物線を描いて床へダイブし、顔から座席の手すりの根元に激突した。

 ゴッ、という鈍い音がした。

 車内が凍りついた。

  ◇

 男はうつ伏せに倒れたまま、しばらく動かなかった。やがて、のそりと顔を上げる。口の周りが血で赤い。彼はぼんやりした顔で自分の口を押さえ、手のひらの上に何かを吐き出した。

 白い、小さなかたまり。

 歯だった。前歯が一本、根元から抜けて、手のひらに転がっていた。

 車内の誰もが息をのんだ。みんな、どうしていいかわからず、ただ立ちすくんでいた。

 その凍りついた車両の中で、一人だけ動いた女がいた。

 みゆきである。

  ◇

 みゆきの体は、考えるより先に動いていた。ゲロを躱す反射とはまったく別の回路。歯科医の反射だ。

「動かないで!」

 みゆきは鋭く言った。診療室で患者に指示を出すときの、あの声だった。みゆきは男のそばに膝をついた。

「その歯、捨てないで。手のひら、開いて。──見せて」

(──上の前歯。きれいに脱臼してる。割れてない。歯根膜がまだついてる。これはいける。時間だ。乾燥させたら終わる。三十分以内に戻せれば、くっつく)

「あなた、名前は」

「……すずき」

「鈴木さん。今からあなたの歯を助けます。暴れないで。──そこの人」

 みゆきは、固まっていた若い男を指さした。

「次の駅で降りて、牛乳を買ってきて。牛乳です。お茶でも水でもなく、牛乳。急いで」

 若い男は弾かれたように立ち上がった。みゆきは肩から重い訪問鞄を下ろした。歩く小さな歯科医院だ。

 中から出てきたのは、グローブとガーゼとピンセットと、生理食塩水のボトル。それだけだった。訪問鞄はドラえもんのポケットではない。気の利いた止血剤なんて入っていない。あるのはガーゼと、押さえる指。歯医者の止血なんて、昔からそれで足りる。

 みゆきはグローブをはめ、生理食塩水で抜けた歯をそっと洗った。歯根膜をこすらないように、優しく流すだけ。それから鈴木の頭を両手で固定し、血だらけの口の中の、ぽっかり空いた穴に、歯をそっと押し戻した。

 ゆっくりと。正しい向きに。最後にぐっと押し込む。

「噛んで。ガーゼ、強く噛んで。血はこれで止まる。動かさないで」

 鈴木は、涙と鼻水と血でぐちゃぐちゃの顔で、こくこく頷いた。

  ◇

 ちょうどそのとき、電車が駅に着いた。牛乳を買いに行った若い男が、息を切らして戻ってきた。

「牛乳、なかったです! コーヒー牛乳しか!」

「それでいい! 持ってきて!」

 みゆきはコーヒー牛乳のパックを受け取った。──いや、もう歯は戻したから使わない。みゆきは少し考えて、それを自分で飲んだ。喉が渇いていた。甘かった。

 みゆきは鈴木を、次の停車駅で駅員に引き継いだ。

「歯科口腔外科のある救急に。再植したばかりです。明日、必ず歯医者へ。──これ、あたしの診療所の名刺。初富です。なんなら、うちに来てください」

 鈴木はガーゼを噛んだまま、何度も頭を下げた。何か言いたそうだったが、ガーゼで言葉にならない。それでも彼は最後に、ひとことだけ絞り出した。

「……おねえさん、ありがとう」

 扉が閉まった。

  ◇

 みゆきは自分の席に戻った。

 残った乗客たちが、みゆきを見ていた。変な人を見る目ではなかった。もっと別の、尊敬のような何かだった。だが、みゆきの頭を占めていたのは、それではなかった。

(──おねえさん、って言った)

 鈴木は、おねえさん、と言った。おばちゃん、ではなく。前歯を一本失い、血まみれで、人生でいちばん大変なあの瞬間に、彼の脳はちゃんと、あたしをおねえさんと認識した。

 これは極限状態における、人間の最も正直な判定だ。岡崎の青年会議所の屁理屈より、よほど信用できる。

 みゆきは窓に映る自分の顔を、こっそり確認した。涼やかな目元。品のいい鼻筋。本人比で。和風美人は、終電前の車内でも健在だった。

 歯を一本、救った。ついでに、自尊心も救われた。今夜は収支が、大幅な黒字だった。

  ◇

 みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。

 「鈴木氏、転倒し前歯を脱臼。車内にて再植に成功。牛乳の代打はコーヒー牛乳(当方が飲用)。なお氏は当方を『おねえさん』と呼んだ。極限状態での判定につき信憑性は極めて高い。評価:★★★★★。本日のベストアクト」

 保存。

 みゆきは岡崎に、一通だけ送った。

 「今日、電車で人の歯を助けた。患者にお姉さんって呼ばれた」

 すぐ既読がついた。

 「よかったやん、お姉さん(笑)」

 みゆきはその(笑)を見逃さなかった。

 「宮古島」

 返信は、来なかった。

 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。和風美人(本人比)。本日、人の歯と自分の自尊心を、同時に救出。

 今日も、終電の一本手前。

 みゆきである。

(第9話 了)

________________________________________

次回 第10話「岡崎が、味噌汁を作る」



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