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第8話 丸ノ内線は、なぜ地上に出るのか

みゆきには、誰にも披露する機会のない知識が、山ほどある。


 週に二十四時間を電車で生きていると、いやでも鉄道に詳しくなる。どの駅でドアが左右どちらに開くか。どの路線がなぜ曲がっているか。そういう世界一どうでもいい知識が、みゆきの頭にはぎっしり詰まっている。


 問題は、披露する相手がいないことだ。岡崎に話しても「ふうん」で終わる。おはぎは犬だ。だからみゆきはたいてい、心の中でひとり呟いている。


 その夜もみゆきは丸ノ内線に乗っていた。書類を投函するための、一駅だけの寄り道だ。


 赤い車体。古いトンネルの匂い。みゆきはこの路線がわりと好きだった。


  ◇


 御茶ノ水に近づいたとき、窓の外がふっと明るくなった。


 地下鉄が地上に出たのだ。


 暗いトンネルが急に途切れて、夜の街が広がる。眼下には神田川。頭上には聖橋。赤い電車は川の谷を、橋のようにひとまたぎして、また向こうのトンネルへ潜っていく。ほんの十数秒の、地上の旅。


 みゆきの頭の中で、ストックしていた知識がうずうずと疼いた。


(──丸ノ内線は地下鉄なのに、ここだけ地上に出る。理由は神田川だ。川が深い谷を刻んでいて、浅く掘った地下鉄は谷を越えるのに、いったん顔を出すしかない。越えたらまた潜る。地下鉄が川に道を譲る、数少ない場所だ)


 いつもなら、ここで終わる。誰にも言わず、ひとりしみじみする。


 だが今夜は違った。


  ◇


 みゆきの隣で、小さな男の子が、窓にぺたっと張りついていた。


 四、五歳くらい。隣では母親が見事に爆睡している。睡眠教徒だ。子は目をまんまるにして、流れていく夜景を見ていた。


「なんで、地下鉄なのに、そとなの?」


 男の子が、誰に言うともなく呟いた。


 みゆきの中で、何かがめらりと燃えた。


 来た。あたしの出番だ。四十年生きて、ようやくこの知識を求める者が現れた。みゆきは、ソムリエがワインを語るときのようなおごそかな声で口を開いた。


「あのね。下にね、川があるの。神田川。川がね、深い谷を作ってるから、地下鉄はそこを越えるのに、いったん外に出るの。越えたら、またもぐるよ」


「……へえ!」


 男の子の目がきらきらした。


 みゆきは深い満足を覚えた。知識が役に立った。生まれて初めて、あたしの無駄知識が世界に貢献した。歯科医療と同じくらい尊い瞬間だった。


  ◇


 だが、子供というのは引き際を知らない。


「じゃあ、なんで川は、たにを、つくるの?」


「……えっと。長い時間をかけて、水が土を削るから」


「なんで、けずれるの?」


「……水の力。あと、重力」


「じゅうりょくって、なに?」


 みゆきの額に、うっすら汗がにじんだ。神田川までは完璧だった。だが話はなぜか、物理学のほうへ転がっていく。みゆきは歯科医だ。重力の専門家ではない。


「じゅうりょくはね……物が下に落ちる、力」


「なんで、おちるの?」


(──まずい)


 みゆきは悟った。子供の「なんで」には底がない。掘っても掘っても、地下鉄みたいに終わらない。たまに神田川みたいに地上に出て、答えられる瞬間があるだけだ。残りはぜんぶ、暗いトンネルだった。


 みゆきは苦し紛れに言った。


「……それはね、ニュートンっていう、すごい人が考えたの」


「おばちゃん、なんで、そんなこと、いっぱい、知ってるの?」


 みゆきは言葉に詰まった。


 なんで、こんなことをいっぱい知っているのか。たぶん、毎晩ひとりで電車に乗っているからだ。喋る相手がいないから、知識ばかり溜まっていく。冷蔵庫の賞味期限切れみたいに、頭の中にどうでもいい知識が堆積していく。


 でも、それを五歳児に説明するのは難しかった。


「……おばちゃんが、いっぱい電車に乗るからだよ」


「ふうん」


 男の子はそれで満足したらしい。また窓の外に顔を戻した。電車はもう、トンネルの中だった。神田川は過ぎていた。


  ◇


 みゆきは御茶ノ水で降りた。


 ホームに立つと、ほんの少しだけ誇らしかった。今夜あたしは、知識を人に渡した。たとえ相手が五歳でも、たとえ途中で重力に敗れても、神田川の話だけはちゃんと伝わった。あの子はもしかしたら一生、丸ノ内線が御茶ノ水で地上に出るたびに、神田川を思い出すかもしれない。


 みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。


 「丸ノ内線・御茶ノ水。地下鉄が神田川の谷を越えるため地上に出る区間で、五歳児に解説の機会を得る。神田川までは完勝。重力以降は敗北。最後、なぜそんなに物知りか問われ、返答に窮す。評価:★★★★☆。知識、初めて役に立つ」


 保存。


 みゆきは書類を、無事に投函した。


 帰り道、みゆきはひとり呟いた。丸ノ内線の赤は、もともと、たばこの「ピース」の缶の色を参考にしたらしい。──この知識を、さっきの子に言わなくてよかった。あれ以上質問されたら、たぶん終電を逃していた。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、五歳児の臨時・社会科講師。


 今日も終電の一本手前。


 みゆきである。


(第8話 了)



次回 第9話「終電一本前の歯」


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