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第10話 岡崎が、味噌汁を作る

 月に二、三度、岡崎は雑司ヶ谷に泊まりに来る。


 来ると、なぜかみゆきの分まで朝ごはんを作る。出汁から味噌汁をひく男だ。みゆきが冷蔵庫のゾンビ調味料で料理を放棄して久しいこの部屋で、岡崎だけが、まともな台所仕事をする。


 その夜も岡崎は、鍋の前に立っていた。


「なあ。この段ボール、いつ捨てるんや」


 冷蔵庫の横にそびえる五年分の段ボールタワーを見て、岡崎が言った。


「そのうち」


 みゆきは布団に寝転がったまま答えた。これはもう、二人の合言葉のようなものだった。岡崎が「いつ捨てるんや」と言い、みゆきが「そのうち」と返す。タワーは今日も無事だった。


「……なあ、このポン酢、賞味期限、二年前やぞ」


「あー。それ、この前あんたが捨てたやつ」


「なんでまだあるんや!」


 岡崎の声が、エセ関西弁で跳ねた。捨てたはずの調味料が、なぜか冷蔵庫に戻っている。この家ではよくあることだった。理由はみゆきにもわからない。


 平和な夜だった。


  ◇


 味噌汁のいい匂いがしてきた。岡崎がふと言った。


「なあ。来月、どっか行かへん? 温泉とか」


 みゆきは一拍おいて、言った。


「宮古島」


 岡崎が、出汁をひく手を止めた。


  ◇


 岡崎が、この一言で石像のように固まるのには、理由がある。


 三年前のことだ。みゆきと岡崎は、宮古島へ行く約束をしていた。航空券もホテルも取った。みゆきは貴重な連休を、そこにぶつけた。


 だが出発の二週間前。岡崎は、別の女と付き合うことになった、と言って、旅行を土壇場でキャンセルした。


 みゆきは怒った。だがそれ以上に、もったいなかった。取ってしまった連休。キャンセルできないホテル代。みゆきという女は、怒りより損得が先に立つ。


 だからみゆきは、一人で行った。宮古島へ。


  ◇


 三泊四日。みゆきは完璧に、一人でやりきった。


 一人でエメラルドグリーンの海に入った。一人でレンタカーを走らせ、岬を見た。一人で海ぶどうを食べた。


 そして、極めつけ。


 ビーチのバーベキュー場。家族連れとカップルだらけのその場所で、みゆきは一人ぶんの網と炭を借り、一人で肉を焼いた。一人でビールを飲み(飲めないので一口で限界だったが)、一人で「うまい」と声に出して言った。


 周囲はドン引きした。


 はしゃぐ家族も、寄り添うカップルも、誰もが、その一人で完結している女を遠巻きに見た。店員が心配して声をかけてきた。「お、お連れ様は……?」。みゆきは肉をひっくり返しながら言った。「いません。一人です。最高です」。


 伝説である。


 みゆきはその四日間で、岡崎への恨みを心の奥にそっと保存した。賞味期限のない恨みだ。冷蔵庫のゾンビ調味料みたいに、何年経っても、捨てたはずなのに戻ってくる。


  ◇


 以来、岡崎が調子に乗ったり、無神経なことを言ったりするたび、みゆきは「宮古島」と言う。


 すると岡崎は、自分の人生で最も愚かだった瞬間を思い出して、黙る。たった四文字で、男が一人沈黙する。これほど費用対効果の高い言葉を、みゆきはほかに知らない。


 ちなみに、岡崎が乗り換えたその別の女とは、半年で別れたらしい。そして岡崎はなぜか、また、みゆきの台所で味噌汁をひいている。


 別れたのか、別れてないのか。付き合っているのか、いないのか。二人とも決めない。決めないことに関しては、達人同士だった。たぶん岡崎の味噌汁は、言葉にしない謝罪なのだと、みゆきは思っている。出汁を毎回律儀にひくのは、たぶん、そういうことだ。


  ◇


 岡崎が、味噌汁をよそって、布団のそばまで持ってきた。


「ほら。宮古島のことは、まあ、悪かったって」


「言葉で言え。ちゃんと」


 岡崎はしばらく黙ってから、ぼそっと言った。


「……宮古島のことは、悪かったです」


 みゆきは、味噌汁をひとくちすすった。


 うまかった。悔しいくらい、うまかった。出汁が、きいていた。


「許してない」


「知ってる」


 岡崎はそれだけ言って、自分のぶんの味噌汁をすすった。二人はしばらく、何も言わずに味噌汁を飲んだ。許していないし、決めてもいない。何ひとつ解決していない。だが、味噌汁はうまい。それで今夜は、よかった。


  ◇


 みゆきはスマホを取り出した。


 今夜は電車に乗っていない。岡崎がいる夜は、終電に乗らないからだ。だから「車内遭遇録」はない。


 みゆきは少し考えて、こう書いた。


 **「本日、車内遭遇なし(在宅)。強いて言えば本日の変な人は、人の家のゾンビ冷蔵庫に怯えつつ、三年前の罪を蒸し返され、味噌汁で詫びる男。評価:★★★☆☆。ただし味噌汁は★★★★★」**


 保存。


 布団の上で、みゆきは空になった椀を置いた。岡崎は洗い物をしている。背中を向けたまま、ふと言った。


「なあ。来年、俺も四十やねんけど」


「うん」


「俺も、おじさんになるんかな」


「宮古島」


「それは関係ないやろ!」


 みゆきは布団にもぐりこんで、少しだけ笑った。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、終電を回避し、味噌汁で三年前の貸しを、ほんの少しだけ回収した女。


 今日は、終電に乗らなかった。


 みゆきである。


(第10話 了)


---


*次回 第11話「冷蔵庫の住人たち」*



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