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第11話 冷蔵庫の住人たち

 終電の一本前。みゆきは今夜も回遊して帰ってきた。


 車内ではいつものように、睡眠教の信徒たちが思い思いの姿勢で救われていた。みゆきはそれを横目に、星もつけず、ただ家路を急いだ。今夜は早く布団にもぐりたかった。


 雑司ヶ谷の部屋に着くと、灯りがついていた。岡崎だ。合鍵を持っている。台所に立って、何か作る気らしい。


 その背中に、みゆきは嫌な予感がした。


  ◇


 まず、この家の司法制度について説明しておく。


 岡崎は、賞味期限警察である。


 彼の担当区域は、冷蔵庫、調理棚、そして調理台の引き出し。岡崎はそこを巡回し、期限切れの容疑者を見つけ、摘発し、調理台の上に一列に並べる。そこまでが彼の仕事だ。


 処分の判決は、みゆきに委ねられている。


 なぜか。油や調味料は、中身を流しに捨てなければならない。すると酢の臭いと、正体不明の臭いが、部屋中に充満する。岡崎がいるときにそれをやると、夕飯が台無しになる。だからみゆきは前々から、こう言ってある。「あんたがいるときは、捨てるのやめて」。


 岡崎はそれを律儀に守っている。摘発まではやる。だが執行はしない。あとはみゆきの判決を信じて待つ。


 全員期限切れなのだから、判決は即廃棄に決まっている。岡崎はそう信じて疑っていない。


 だが、ここに司法の闇がある。


 みゆきは、判決を下していない。


 岡崎が帰ったあと、調理台に並んだ容疑者たちを、みゆきはそっと冷蔵庫に戻している。執行されない判決。住人たちはこうして不起訴のまま、何年もこの家に住み続けている。


  ◇


 その夜も惨劇は起きた。


 岡崎が味噌汁の出汁をひこうと、調理棚に手を伸ばす。そして動きが止まった。


「……このポン酢。先週、俺が摘発したやつやんな」


「うん」


「調理台に、並べたよな」


「うん」


「なんで冷蔵庫におるんや!」


 岡崎の声がエセ関西弁で跳ねた。


 これがいつもの流れだった。岡崎が料理をするたび、新しい調味料が要る。手を伸ばすたび、以前自分が摘発したはずの住人と再会する。ポン酢で会い、ドレッシングで会い、ラベルなしの瓶詰めに会う。摘発しても摘発しても、次に来ると全員、しれっと定位置に戻っている。


 岡崎にとって、それは恐怖だった。自分の下した摘発が、ことごとくなかったことにされている。法治国家が根底から揺らいでいた。


  ◇


 そして今夜。岡崎の堪忍袋の緒が、切れた。


「もう、ええ。今日こそ決着つける」


 岡崎は出汁をひく手を止めて、振り返った。目が据わっていた。


「飯の前。寝る前。今ここで、お前の目の前で、全部処分する。即決や。執行猶予なし」


 みゆきは布団から身を起こした。


「待って。あんたがいるとき、捨てるの禁止って」


「その禁止が、こいつらをつけあがらせたんや!」


 岡崎は宣言した。そして、大捕物が始まった。


 冷蔵庫、調理棚、引き出し。岡崎はすべての区域から、住人たちを引きずり出した。ポン酢。謎のドレッシング。茶色く沈殿した油。膨らんだヨーグルト。進化したチーズ。そして最奥から、ラベルなしの、中身不明の瓶詰め。


 全員、調理台に整列した。壮観だった。みゆきの家の歴代の住人が、勢ぞろいしていた。


 岡崎は流しの前に立ち、一本目のポン酢の蓋を開けた。


  ◇


 部屋中に、臭いが充満した。


 二年もののポン酢の、つんとした酢の臭い。それに油の古い臭い。さらにラベルなしの瓶を開けた瞬間、誰も嗅いだことのない説明不能の臭いが加わった。みゆきが捨てるのを禁じていた、まさにその理由が、いま部屋に立ちこめていた。


「うっ……これ、やっぱ地獄やん……」と岡崎がむせた。


「だから言ったでしょ」


 だが岡崎は止まらなかった。涙目でむせながら、一本ずつ中身を流しに捨て、容器をゆすぎ、分別し、袋に詰めていった。執行は粛々と進んだ。


 みゆきは布団の上から、それを見ていた。


 なんだか葬式のようだ、と思った。何年もこの家に住んでいた者たちが、一人、また一人、消えていく。家賃も払わず、何の役にも立たず、ただ、いた。いただけ。だが、いなくなると、少し寂しい。


 あたしはたぶん、何も捨てられない女だ。


 段ボールも捨てられない。この調味料も捨てられなかった。岡崎との、別れたか別れてないかわからない関係も、宮古島の恨みも、何ひとつ捨てられずに、ぜんぶ、冷蔵庫の奥みたいなところに、後生大事にしまってある。


 だから岡崎が代わりに捨ててくれるのは、本当はありがたいことなのかもしれなかった。


  ◇


 最後に、岡崎はラベルなしの瓶を手に取った。


「これも、いくぞ」


「待って」


 みゆきは思わず言った。


「……それだけは、まだ」


「なんでやねん。中身もわからんのやろ」


「わからないから。わからないものを捨てるの、なんか、こわい」


 岡崎はしばらくみゆきを見てから、ため息をついて、その瓶だけ冷蔵庫に戻した。中身不明の主は、こうして今夜も生き延びた。住人は減った。だが、ゼロにはならなかった。みゆきの家から住人が完全にいなくなる日は、たぶん来ない。


  ◇


 みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。今夜は在宅だが、歴史的な夜だった。


 **「自宅冷蔵庫、岡崎による大捕物・即決処分を執行。長年の不起訴がついに覆る。臭気は予告どおり地獄。住人五名、退去。ただし最古参のラベルなし瓶詰めは当方の特赦により残留。評価:★★★★★。判事、初めて執行を許す」**


 保存。


 部屋には、まだ酢と謎の臭いが残っていた。冷蔵庫は、すかすかになっていた。みゆきはその急に広くなった庫内を見て、なぜか少しだけ心細くなった。


「岡崎」


「なんや」


「明日、ポン酢、買ってくる」


「捨てた意味ないやろがい!」


 みゆきはふとんにもぐりこんで、少しだけ笑った。窓の外は、もう空が白みかけていた。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。冷蔵庫の、執行を渋りつづける甘い判事。


 今日は、終電に乗らなかった。


 みゆきである。


(第11話 了)


---


*次回 第12話「回遊魚は日暮里で遭難する(前編)」*



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