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第12話 回遊魚は日暮里で遭難する

その日、みゆきは珍しく朝から、スーツケースを引いて出かけた。


 歯科の学会が、幕張メッセであった。だが荷物が大きいのには、別の理由がある。学会のあと、みゆきはそのまま千葉の奥——外房の海辺の宿に、一泊する予定だった。ひとり旅だ。第二・第四水曜と祝日しか休めない女が、無理やりねじ込んだ、年に数えるほどの休み。宮古島以来の、ひとりの遠征である。


 だからスーツケースには、学会の資料と、一泊ぶんの着替えが詰まっていた。


 ちなみに、実家の初富からなら、幕張はずっと近い。だが今日は雑司ヶ谷の家を出る日だったし、旅の支度もぜんぶ、東京の部屋にあった。だからみゆきは東京から、京葉線で海浜幕張へ向かうことにした。


 みゆきは乗換アプリを開いた。画面には、こう出ていた。


「日暮里で乗り換え」


 みゆきはそれを、こう読んだ。


(──日暮里に、京葉線があるのね)


 これが、すべての始まりだった。


 念のため言っておくと、アプリは間違っていない。「日暮里で京浜東北線に乗り換え、東京駅から京葉線」。そう書いてあった。だがみゆきの目は、後半を勝手に省略した。回遊魚の慢心が、文章を書き換えた。


 歯医者なら知っているはずだった。「磨けてるつもり」が、いちばん危ない、ということを。


  ◇


 日暮里に着いた。


 みゆきはホームに降り立ち、京葉線の表示を探した。


 京葉線のイメージカラーは、たしか、赤。ワインレッドのあの色だ。みゆきは赤い案内を探した。だが、ない。山手線の緑も、京浜東北線の水色も、京成の青もあるのに、赤だけが、どこにもない。


 本来なら、それが答えだった。赤がない。つまり、京葉線は、ここにない。だがみゆきは、こう考えた。


(──赤い表示を、見落としてるんだろう)


 みゆきは構内図の前に立った。山手線。京浜東北線。常磐線。京成本線。舎人ライナー。──京葉線が、ない。


(──印刷が、古いんだろう)


 みゆきは、現実のほうを疑った。地図が間違っている。そう結論づけて、みゆきはスーツケースを引き、最初の階段を上った。


  ◇


 一つ目の階段は、空へ続いていた。


 上りきると、そこは日暮里・舎人ライナーの高架ホームだった。京葉線では、断じてない。みゆきは引き返した。スーツケースが、ごとごとと抗議した。


 二つ目の階段の先に、「京成」の文字が見えた。


 京葉と、京成。一字しか違わない。みゆきはほとんど条件反射で、そっちへ向かった。


 たどり着いたのは、京成スカイライナーの改札だった。成田空港行き。みゆきは空港へ行きかけていた。学会は幕張だ。空港ではない。


(──京葉。京成。……似てる)


 このとき、みゆきの脳に、わずかなほころびが生じた。京葉と京成。みゆきはさっきから、その二つを混同していたのかもしれない。だが認めたくなかった。回遊魚は地名を間違えない。間違えるはずがない。


 三つ目の階段は、改札の外へ出てしまった。


 目の前に橋があった。下をたくさんの線路が流れている。トレインミュージアムのような絶景だった。だが京葉線の改札はない。


 その橋の上で、小さな男の子が電車を眺めていた。五歳くらい。みゆきはなぜか、この年頃の子供と縁がある。


 男の子はみゆきのスーツケースを見て、無邪気に言った。


「けいようせんは、ここ、ないよ」


 神託だった。


 だがみゆきは、聞き流した。五歳児に鉄道を教わるわけにはいかない。あたしは回遊魚だ。プライドが神託をはねのけた。──のちにみゆきは、この瞬間を深く後悔することになる。


  ◇


 四つ目の階段を下りた。


 みゆきは山手線のホームに戻ってきた。


 振り出しだった。一周してしまった。スーツケースと、汗と、絶望だけが増えていた。


 地下に降りると、スマホは圏外になった。頼みの綱のアプリが使えない。みゆきは記憶と勘だけで、京葉線を探すしかなくなった。回遊魚の、いちばん信用できない勘だ。


 みゆきはついに、駅員に聞いた。


「すみません。京葉線は、どこですか」


「京成線、ですね。あちらの改札を」


「いえ、京葉線です。け、い、よ、う」


「はい。け、い、せ、い、ですね」


「……け、い、よ、う」


「け、い、せ、い」


 禅問答だった。けいようと、けいせい。たった一音の違いが、二人のあいだに深い谷を刻んでいた。神田川より、深い谷だった。


  ◇


 みゆきはいったん深呼吸した。そして覚悟を決めて圏外と格闘し、なんとかアプリを、もう一度読み込ませた。


 画面がゆっくりと表示された。


「日暮里で京浜東北線に乗り換え、東京駅から京葉線」


 みゆきはしばらく、その文章を見つめた。


 東京駅から、京葉線。


 日暮里に、京葉線はない。最初から、なかった。赤い表示がなかったのも、当然だった。あの五歳児が、百パーセント正しかった。あたしはありもしない線路を、スーツケースを引いて、一時間も探し回っていた。


 達観が、音を立てて崩れた。回遊魚はどんな海でも泳げる。そう思っていた。なのにあたしは、日暮里という、たった一つの駅で、見事に遭難していた。


  ◇


 みゆきはよろよろと、京浜東北線のホームへ向かった。とにかく東京駅へ行かなければ、京葉線にはたどり着けない。


 だが東京駅へ向かう電車に揺られながら、みゆきは思い出していた。


 東京駅の京葉線ホームが、どこにあるかを。


 あれは駅の、いちばん端。地下深く。動く歩道まであるのに、それでも歩いて十分近くかかる。「京葉線は実質、別の駅」と鉄道好きのあいだで語り草になっている、あの悪名高き、地の果て。


 日暮里を抜けた、その先に。


 第二の迷宮が、口を開けて待っていた。


  ◇


 みゆきはスマホを取り出し、新しいメモを作った。「車内遭遇録」では、ない。


 **「駅遭難録(新設)。第一号・日暮里。京葉線(赤)を探し、舎人ライナー・京成スカイライナー・トレインミュージアム・振り出しの四箇所を巡礼。五歳児の神託を黙殺。京葉線は当駅に存在せず(正解は東京駅)。評価:判定不能(ただし敵としては最強)。──戦いは、まだ終わっていない」**


 保存。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。そして、日暮里で遭難中の女。


 まだ朝の、九時だった。学会は午後から。地獄には、まだ続きがある。


 みゆきである。


(第12話・前編 了)


---


*次回 第13話「東京駅、京葉線、地の果て(後編)」*



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