第13話 東京駅、京葉線、地の果て
東京駅に着いた。みゆきは京葉線を目指して歩きはじめた。
「京葉線→」。案内表示がそう告げている。みゆきは矢印に従った。歩いた。だが、着かない。
矢印はまた現れた。「京葉線→」。歩く。動く歩道が現れた。乗る。降りる。また歩く。エスカレーターを下りる。さらに地下へ。また「京葉線→」。歩く。動く歩道。
京葉線の文字は、近づいてはまた少し、遠ざかる気がした。
みゆきはスーツケースを引いて、東京駅の地の果てをひたすら歩いた。これはもう乗り換えではない。行軍だった。日暮里では一周し、ここでは一直線に、ただひたすら歩かされる。
(──動く歩道に乗っているあいだだけが、唯一、休める)
みゆきは、動く歩道に生かされていた。
◇
そして、ついに。
長い長い通路の果てに、京葉線のホームが現れた。
滑りこんできた電車を見て、みゆきは思わず声が出そうになった。
赤い帯だった。
(──赤。やっと赤に会えた)
日暮里であれほど探して、どこにもなかったあの赤。京葉線のワインレッド。あった。ここにちゃんとあった。みゆきは感動の再会を果たした人のような顔で、その赤い電車に乗りこんだ。
席に座ると、どっと疲れが出た。まだ午前中なのに、もう一日ぶん働いた気がした。
電車は海浜幕張へ向かって走り出した。窓の外に、だんだん海が見えてきた。
◇
幕張メッセの、歯科学会。
みゆきは受付で名札を受け取った。そのとき、隣で名札を受け取っていた同年代の女性歯科医と目が合った。
その人も、なんだかげっそりしていた。
「……あの。もしかして、京葉線で来られました?」とみゆきはつい聞いた。
「東京駅で遭難しました」その人は即答した。「動く歩道、五回乗りました」
「あたしは、日暮里で遭難しました」
「日暮里!」
その人の目が輝いた。同志を見つけた目だった。
気づくと受付の隅に、歯科医が数人、輪になっていた。みんな京葉線か、日暮里か、東京駅で、何かしらの被害に遭っていた。一人は舎人ライナーに乗りかけた。一人は京成スカイライナーで、危うく成田へ飛びかけた。
「日暮里は、だめだ」と誰かが言った。
「日暮里は、だめだ」と全員がうなずいた。
ミクロン単位で歯を削り、寸分の狂いもなく詰め物を作る、精密の専門家たち。その全員があの駅の前では、見事に無力だった。みゆきは少し救われた。遭難していたのは、あたしだけじゃなかった。
◇
学会が終わると、みゆきはスーツケースを引いて外房へ向かった。
今夜の宿は、海辺にある。学会のあと、ひとり泊まる。年に数えるほどしかない休みを無理やりねじこんだ、ご褒美の旅だ。
電車に揺られながら、みゆきはふと宮古島を思い出した。
あのときも一人だった。だが、あれは恨みの一人旅だった。岡崎に裏切られて、意地で行った旅。一人でバーベキューをして、周りをドン引きさせた、あの旅。
今回はちがう。誰のためでもない。あたしがあたしのために選んだ一人だ。同じ一人旅でも、ずいぶん遠くまで来たものだ、とみゆきは思った。電車も、人生も。
◇
宿に着いた。
部屋には露天風呂がついていた。
ここで、奇跡が起きる。風呂キャン勢のみゆきが、なんと自分から湯に浸かった。
理由は単純だった。明日は仕事がない。髪を乾かしてもいい。終電も気にしなくていい。今夜だけは、何もしなくていい。だから入った。海の見える湯に、ゆっくりと。岡崎に「風呂入った?」と聞かれる前に、自分から入った。たぶん人生でいちばん、自発的な風呂だった。
湯から上がると、みゆきは布団に寝転がって、ビデオ通話をつないだ。
映ったのは、いつものように、父の腕の中の白い大福。
「おはぎ。ママ、今日、日暮里で遭難したけど、ちゃんと生きてるよ」
おはぎは片耳を、ぴくっと動かした。それから、世界でいちばんどうでもいい報告を聞いたという顔で、ふあ、とあくびをした。
塩対応だった。今日も完璧に。
みゆきは笑った。日暮里で遭難しようが、京葉線が地の果てだろうが、おはぎには関係ない。おはぎは今日も、ただ安心して眠っている。それでいい。
◇
通話を切ると、みゆきは布団に深くもぐりこんだ。
明日の朝は、起こしてくれる人もいない。降りる駅もない。守るべき終電もない。ただ、眠ればいい。
睡眠教の教祖は、いつも、いちばん眠れない女だった。終電を気にして、降りる駅を気にして、毎晩起きていた。だが今夜だけは、ちがう。
今夜、教祖はようやく、自分の教義に救われる。
眠るモノは、救われる。──あたしも、たまには、救われていいはずだ。
◇
眠りに落ちる前に、みゆきはスマホを取り出し、「駅遭難録」を開いた。
「日暮里戦、決着。日暮里→東京駅を踏破。京葉線(赤)、確保。第二迷宮の地下行軍、動く歩道に生かされ生還。学会にて同志多数を確認、合言葉は『日暮里は、だめだ』。評価:敗北。ただし、生還。──次は、勝つ」
保存。
みゆきはスマホを置いた。窓の外で、海が静かに鳴っていた。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、日暮里に敗れ、京葉線に勝ち、自分への一人旅でほんの少しだけ報われた女。
今夜は、終電も、明日も、ない。
みゆきは、目を閉じた。
たぶん今夜は、よく眠れる。
みゆきである。
(第13話 了)
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次回 第14話「フロスの持ち方」




