第14話 フロスの持ち方
いつのまにか、車内がコートだらけになっていた。
秋が終わったらしい。みゆきは季節の変わり目を、いつも車内の服装で知る。半袖が長袖になり、長袖の上に何かが一枚増える。今夜はもう、みんな厚いコートを着ていた。暖房がきいて、車内は乾いている。みゆきの手も、かさついていた。一日に何十回も手を洗う歯科医の手は、冬になるといつも、ひび割れる。
駅の中吊りには「おせち、ご予約承り中」。改札には年末のポスター。そしていつもより、ほんの少しだけ、酔っぱらいの密度が上がっていた。忘年会の季節が近づいている。毎年おなじみの、ゲロの季節が、また巡ってくる。
みゆきは今夜も、終電の一本前で回遊して帰る。
◇
総武線。みゆきの向かいの席に、見覚えのある男がいた。
オーラルケアの男だった。
しばらく見なかった。だが、相変わらずだった。男は鞄から歯ブラシを取り出し、続いてフロス、マウスウォッシュ、舌ブラシ、そして吐き出し用の空ボトルを、慣れた手つきで並べた。総武線の、いつもの席。彼の、移動する洗面所。健在だった。
みゆきはふと、思い出した。
ずっと前にこの男へ歯磨きの指導をしたとき、心の中で宿題を残していた。「次回、フロスの持ち方を指導する」。あれから機会がなかった。だが今夜、その「次回」が、ついに来た。
◇
男がフロスを使いはじめた。
みゆきは見た。そしてまた、胃のあたりがぎゅっとなった。
(──持ち方が、雑だ)
男はフロスを長めに切らず、ちょっとだけ引き出して、両手の指にぐるぐる巻きつけていた。そして同じ箇所を、ずっと使い回している。歯と歯のあいだに、勢いよく、ぱちんと通す。歯ぐきを毎回、フロスでひっぱたいていた。
(──だめだ。あれじゃ歯ぐきが切れる。それに同じところを使い回したら、汚れを隣に塗り広げてるだけだ)
みゆきの中で、観客のあたしが言った。「黙って見てなさい」。
だが、歯科医のあたしが、もう立ち上がっていた。宿題を提出する時が、来たのだ。
「あの。それ、もったいないです。フロス」
男が口に指を突っ込んだまま、みゆきを見た。総武線の数人が、また、こちらを見た。だがみゆきは、もう慣れていた。観客から舞台へ。あたしの、いつもの通勤経路だ。
◇
「フロスは、けちらないで、四十センチくらい長めに取ってください。指に巻いて、きれいなところを少しずつ送りながら使う。同じ場所は、二度使わない。──それと、ぱちんって入れちゃだめ。歯ぐきを切ります。のこぎりみたいに、ゆっくり横に動かしながら、入れて」
男はこくこくと頷いた。そして言われたとおり、フロスを長めに引き出し、指に巻き、きれいな面を送りながら、ゆっくり歯のあいだに滑らせた。
……正しいフロッシングだった。
みゆきは深い満足を覚えた。ずっと心に残していた宿題が、今、終わった。総武線で、見ず知らずの男の歯ぐきを、また一つ、未来の出血から救った。
男はフロスを終えると、なぜか、みゆきのほうを向いて、ぺこり、と頭を下げた。口はまだゆすいでいないので、何も言わなかった。ただ、頭を下げた。
みゆきも、軽く会釈を返した。
言葉はひとつも交わしていない。名前も知らない。だが二人のあいだには、たしかに、奇妙な師弟のようなものが流れていた。毎晩、同じ電車に乗る、見知らぬ者同士の、ささやかな関係。みゆきはこういうのが、嫌いではなかった。
◇
男は次の駅で、すっきりした顔で降りていった。コートの背中が、寒そうに丸まっていた。
みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。
**「オーラルケアの男、再会。冬も健在。フロスの持ち方を指導(積年の宿題、提出完了)。けちらず長めに、同じ面は二度使わない、のこぎり厳禁。素直に上達。評価:★★★★☆。なお無言で会釈し合う仲になった」**
保存。
窓の外を、冬が流れていく。乾いた夜気。気の早い家の、小さなイルミネーション。コンビニの、肉まんの湯気。
みゆきはつり革につかまったまま、ひとつ欠伸を噛み殺した。今年も、もう終わりに近い。何ひとつ片付いていない。段ボールタワーも、冷蔵庫の住人も、岡崎との関係も、ぜんぶそのまま、年を越しそうだった。
でも、まあいい。明日もまた、誰かが乗ってくる。あたしはそれを最前列で見届ける。今夜のフロスの男みたいに、ときどき、ちょっとだけ関わりながら。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、車内フロス指導、一件。宿題、提出済み。
今日も、終電の一本手前。
みゆきである。
(第14話 了)
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*次回 第15話「初富の歯医者」*




