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第15話 初富の歯医者


 千葉の端、初富。みゆきは週の半分を、ここで過ごす。

 父から今年引き継いだ、小さくて古い歯医者だ。患者の平均年齢は、たぶん七十を超えている。待合室には石油ストーブ。その上でやかんが、しゅんしゅん鳴っている。かごには、誰かが持ってきたみかん。有線からは控えめな音量で、演歌。

 東京の終電とは、時間の流れがまるでちがう。あちらが濁流なら、こちらはよどんだ用水路だ。みゆきはこの、ねっとりした遅さが嫌いではなかった。

 そして、もうひとつ、東京と決定的にちがうことがある。

 東京の電車では、みゆきは誰でもない。ただの観客だ。名前も素性も、誰も知らない。だが初富では、ちがう。

 ここでは、あたしはみんなに知られている。

  ◇

「あらぁ、みゆきちゃん。大きくなって」

 その日、最初の患者はハナさんだった。八十二歳。父の代からの、四十年来の患者である。みゆきがまだランドセルを背負っていた頃から、この診療所に通っている。

「ハナさん、お久しぶりです。今日は、入れ歯の調子が悪いって」

「そうなのよ。下のがね、かぱかぱしてねえ。──あ、これ、漬物。たくあん。先生に」

 みゆきはたくあんを受け取った。初富の患者は、よく何かを持ってくる。たくあん。白菜。野菜。一度、活きた鯉をもらった父の話は、伝説になっている。

「じゃあ、お口、開けてもらえますか」

「あのねえ、それがね、こないだ、孫がね」

「ハナさん、お口」

「東京から帰ってきてね」

 ハナさんは、口を開けない。

  ◇

 みゆきは悟っていた。ハナさんにとって、この診療所は半分、社交場なのだ。

 入れ歯は口実かもしれない。本当の用事は、喋ること。一人暮らしのハナさんにとって、白衣を着た誰かが自分の話を嫌な顔ひとつせず聞いてくれる場所は、ここくらいなのだ。

 みゆきは東京で、口の中を覗くたび、その人の暮らしを勝手に読み取ってきた。だが初富では、患者のほうから暮らしを全部、話してくれる。読み取る必要がない。向こうから洪水のようにやってくる。

 みゆきは頃合いを見て、ハナさんの口にそっと、ミラーを滑り込ませた。喋りの、ほんの句読点のような隙間を狙って。長年、回遊魚をやっていると、人の話に割り込む技術も自然と身につく。

 入れ歯の不具合は、すぐわかった。調整して、はめ直す。かぱかぱは止まった。

「あらぁ、ぴたっとした。やっぱり、先生の娘さんねえ」

 ハナさんは嬉しそうに、入れ歯をかちかち鳴らした。

  ◇

「お父さん先生はねえ」と、ハナさんが言った。

 来た、とみゆきは思う。初富で治療していると、必ず父と比べられる。お父さん先生は、こうだった。お父さん先生は、ああだった。生まれる前からここにいた、もう一人の歯科医。それが、みゆきの見えない相方だった。

「お父さん先生はねえ、無口でねえ。怖い顔して、ろくに喋らないのよ。あんたみたいに、優しくない」

「……はあ」

「でもね。あの先生、最後はね、診察台で、犬の話ばっかりするようになってねえ。白い、まあるい犬。あれ、可愛いねえ」

 みゆきの手が、少し止まった。

 あの、患者の前では絶対に笑わなかった父が。診察台で、犬の話を。おはぎの話を。知らない間に。

 継いだのは、診療所だけじゃないのかもしれない、とみゆきは思った。父が四十年かけて、この狭い待合室にためこんだもの。たくあんと、世間話と、犬の話。それも、ぜんぶ、いつのまにか、あたしが引き継いでいた。

  ◇

 昼休み。診療所の引き戸が、がらりと開いた。

 父だった。その足元に、白いまあるいのが、ついてきている。おはぎだ。

「散歩のついでだ」と父は、ぶっきらぼうに言った。だが目当ては、明らかに患者だった。父は引退しても、この診療所が気になって、しかたがないのだ。

「あらぁ、おはぎちゃん!」とハナさんが声を上げた。

「おはぎ、ハナさんに、ご挨拶しなさい」と父が、聞いたこともない猫なで声を出した。患者には四十年笑わなかった男が、犬にはとろける。

 おはぎはハナさんの足元で、ぱたぱた尻尾を振った。ハナさんも父も、おはぎを挟んでにこにこしている。みゆきだけが、診療室の隅で、軽く面白くなかった。

(──あたしの、犬なんだけど)

 初富の診療所は、今日も平和だった。

  ◇

 夕方、最後の患者を見送ると、みゆきはひとり、診察台に座って、スマホを取り出した。

 初富にいる日は、終電に乗らない。だから「車内遭遇録」は、書くことがない。だがみゆきは最近、こう思っている。変な人は、電車だけにいるわけじゃない。

 みゆきは新しく、こう記録した。

 「初富にて。本日の遭遇、ハナさん八十二歳。来院目的は入れ歯、実際の目的は世間話。たくあん一本を納品。診察台で四十年前の父を召喚。なお父は犬の話をしていたと判明。評価:★★★★☆。車内に負けず劣らずの、変人の宝庫」

 保存。

 窓の外は、もう暗い。初富の冬は、東京より少しだけ寒い。みゆきはストーブの上のやかんで、お茶をいれた。たくあんを一切れ、かじった。

 しょっぱくて、うまかった。

 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。そして初富では、院長の娘、みゆきちゃん。

 今日は、終電に乗らない。

 みゆきである。

(第15話 了)

________________________________________

次回 第16話「総武線、しっぽの男」



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