第16話 総武線、しっぽの男
十二月の総武線は、いつにも増して、人生がにじんでいた。
忘年会帰りの赤い顔。膝に抱えた、紙袋の土産。つり革で舟を漕ぐ、疲れたコート。年の瀬が近づくと、この黄色い電車は、一年ぶんのお疲れさまを、まとめて運んでいるように見える。みゆきは今夜も、その中を回遊して帰る。
向かいの席に、ごく普通の男が座っていた。
ごく普通の、と言いたいところだが、ひとつだけ普通でないところがあった。
膝に置いたリュックの口から、しっぽが出ていた。
ふさふさの、立派なしっぽ。それが電車の揺れに合わせて、ゆらゆらと揺れていた。
◇
みゆきは、この男を知っている。
しっぽの男だ。何度か見かけたことがある。いつもごく普通の身なりで、いつもリュックから、しっぽを出している。
ただし、毎回しっぽがちがう。
一度目は猫だった。すらりと長い、黒いしっぽ。二度目は柴犬みたいな、くるんと巻いたやつ。三度目は灰色の、もふもふした太いしっぽで、あれはたぬきか何かだと思う。
中身は、一度も見たことがない。いつも、しっぽだけがリュックから、ひょっこり出ている。男の正体も、しっぽの主の正体も、何ひとつわからない。
◇
みゆきは、つい観察してしまう。
歯科医は、口元を見ればその人の暮らしが読める。それと同じで、みゆきは最近、しっぽを見るとつい、動物を見立ててしまう。職業病が、妙な方向に転移していた。
(──今夜のは、長い。それに、しま模様。輪っかが、ある)
縞の入った、長くて太いしっぽ。みゆきは頭の中の動物図鑑を、めくった。
(──アライグマ? いや、レッサーパンダか? それとも……あんなしっぽの動物、いたっけ?)
判定、できなかった。歯なら、ぱっと見てだいたいわかる。だが、しっぽは専門外だった。歯学部では、しっぽを習わなかった。
◇
みゆきの中で、いつもの疑問がふくらんでいく。
なぜ、しっぽだけ出すのか。隠す気が、あるのかないのか。仕事で運んでいるのか。趣味なのか。あるいは毎晩、ちがう動物を、どこかへ届けているのか。届け先は。中身は。生きて、いるのか。
考えれば考えるほど、底がない。御茶ノ水の五歳児の「なんで」と、同じだ。掘っても掘っても、答えにたどりつかない。
そのとき。
男が、ふとリュックの口に、手をかけた。
みゆきの息が、止まった。
(──開ける。今、中身が見える)
みゆきは、ほんの少し身を乗り出した。リュックの口が、わずかにひらく。中の暗がりが、見え――
◇
電車が、カーブに差しかかった。
車両が、ぐらりと揺れた。みゆきの前に立っていた酔っぱらいが、よろけて、ちょうど視界をふさいだ。
一瞬だった。
酔っぱらいが体勢を立て直したときには、男はもう、リュックの口を閉じていた。しっぽだけが、また何事もなかったように、ゆらゆら揺れていた。
見えなかった。
みゆきは、ふう、と息を吐いた。なぜか少し、ほっとしている自分がいた。
◇
次の駅で、しっぽの男は立ち上がった。
降り際、男はふと、みゆきのほうを見た。みゆきの視線に、気づいていたらしい。男はほんの少しだけ口角を上げて、会釈のような何かをした。
そして、しっぽを揺らして、夜のホームへ消えていった。
最後までひとことも、なかった。中身もわからない。なぜしっぽを出すのかも、わからない。今夜のが結局、何の動物だったのかも、わからない。
だが、それでいい、とみゆきは思った。
きゅうり結社と、同じだ。世の中には、説明されないほうがいいものがある。しっぽの男はたぶん、その筆頭格だ。種明かしされた瞬間に、たぶん、この夜のちょっとした味は、消えてしまう。わからないまま揺れているのが、いちばんいい。
◇
みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。
「しっぽの男、再会。本日のしっぽは、縞模様・輪あり・長め。アライグマ説有力なれど未確定。中身は今回も視認できず(酔客に阻まれる)。正体、依然として不明。評価:★★★★★。沿線が誇る、永遠の謎」
保存。
窓の外を、冬の夜が流れていく。気の早い家のイルミネーション。コンビニの、肉まんの湯気。年の瀬の、慌ただしい灯り。
みゆきはつり革につかまったまま、ぼんやり思った。今年も、いろんなしっぽに会った。猫、柴犬、たぬき、そして今夜の、謎の縞。どれも正体は、わからずじまい。それでも毎晩、ちゃんと揺れていた。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、しっぽの鑑定に失敗。
今日も、終電の一本手前。
みゆきである。
(第16話 了)
________________________________________
次回 第17話「訪問歯科、ベッドの脇で」




