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第17話 訪問歯科、ベッドの脇で

 みゆきの仕事は、電車の上にも、診療所の中にもある。そして時々、誰かのベッドの脇にもある。


 訪問歯科。歯医者に来られない人のところへ、歯医者のほうが出向く。みゆきは週に何度か、川越のあたりを回る。重い訪問鞄を提げて。あの、歩く小さな歯科医院を。


 師走の川越は、寒かった。どの家の前にも、正月の支度の気配があった。みゆきは教わった住所の、古い一軒家の引き戸を開けた。


  ◇


 その日の患者は、トヨさんだった。九十一歳。寝たきりで、もう何年も外に出ていない。


 介護をしているのは、娘さんだった。みゆきを奥の和室へ通してくれる。布団の中で、トヨさんは小さく、まあるくなっていた。


「歯医者さん、来たよ」と娘さんが、耳元で言う。


 トヨさんは薄く目を開けて、みゆきをじろりと見た。そして、第一声がこれだった。


「……あんた、若いね。ちゃんと、できるのかい」


 みゆきは、ひるまなかった。初富で毎日、この手の洗礼は浴びている。


「できます。これでも、博士号まで取ってますから」


 一浪して歯学部に入り、大学院まで進んで、博士号を取った。歯医者として現場に立って、まだ十年ほど。だがその十年は、ほとんど電車の上と、人の口の中で過ごしてきた。若く見えても、中身はそれなりに、煮しめてある。


 ちなみに「若いね」のほうは、ちょっとだけ、嬉しかった。


「ふうん」とトヨさんは鼻を鳴らした。口は、達者だった。寝たきりでも、舌だけは現役らしい。


  ◇


 トヨさんの悩みは、入れ歯だった。


 合わなくなって、痛い。痩せると、歯ぐきの形が変わって、入れ歯はすぐ合わなくなる。だからここ何年か、まともに噛めていないという。


 みゆきは、トヨさんの口の中を覗いた。


 歯科医は、口を見ればその人の暮らしが読める。トヨさんの口は、長い人生を語っていた。たくさん笑って、たくさん食べて、たくさんしゃべってきた口だ。すり減った歯。直した跡。九十一年ぶんの記録が、そこにあった。


 みゆきは入れ歯を預かり、その場で調整を始めた。当たって痛むところを、削り、磨く。地味で、細かい作業だ。だがみゆきは、こういう仕事が嫌いではなかった。


  ◇


「あのね、歯医者さん」と、娘さんが小声で言った。


「お正月に、お雑煮を一緒に食べたいって、言うんです。母。みんな集まるから。──でも、この何年か、お餅なんて、とても」


 布団の中から、トヨさんが、ぼそりと言った。


「もう何年も、家族とおんなじもの、食べてないよ。あたしだけ、いつも、どろどろのやつ」


 みゆきは、調整した入れ歯を、トヨさんの口にはめ直した。そして、噛み合わせを確かめる。


「トヨさん。ちょっと、これ、噛んでみてください」


 みゆきは鞄から、やわらかい蒸しパンを、ひとくちぶん出した。検査用に、よく持っている。トヨさんはおそるおそる、口を動かした。


 もぐ、もぐ。


 ちゃんと、噛めた。


 トヨさんの、しわだらけの顔が、ふっとほどけた。


「……あら。噛める」


「噛めますよ」


「うまい、ねえ」


 トヨさんの目に、うっすら涙がにじんだ。たかが蒸しパン、ひとくち。だがトヨさんは、それをずいぶん長いあいだ、奪われていた。


 娘さんは、口元を押さえて、下を向いていた。


  ◇


 みゆきは思う。


 歯は、食べるための道具だ。だが、食べることはたぶん、人が生きていて、いちばん最後まで、自分の力で受け取れる、よろこびだ。口は、その最後の入口なのだ。


 あたしは毎日、その入口を、せっせと直している。電車で、診療所で、ベッドの脇で。歯石を取り、入れ歯を削り、たまに人の歯を、車内で植え直しながら。たいした仕事だ、と、たまに思う。


 ただし、これだけは、言っておかなければならなかった。


「トヨさん。お雑煮、食べられます。でも、お餅は、小さく小さく切ってください。喉に詰まりやすいので。ゆっくり、誰かがそばで見ているときに、食べてくださいね」


「わかってるよ。あんた、おふくろみたいなこと言うね」


「九十一歳に、それ言われます?」


 トヨさんが、ひひ、と笑った。寝たきりの、いたずらっ子の笑いだった。


  ◇


 帰り際、娘さんが玄関先まで見送ってくれた。何度も頭を下げる。みゆきは、それを押しとどめた。


「お雑煮、楽しみですね」


「はい。──ほんとに、ありがとうございます」


 みゆきは訪問鞄を提げ直し、寒い川越の夕方の道を、歩きだした。


 みゆきはスマホを取り出し、メモを開いた。今日は電車にも、診療所にもいない。だが、これは残しておきたかった。


 **「訪問診療録、番外。トヨさん九十一歳。入れ歯を調整、蒸しパンの完食を確認。正月のお雑煮、参戦可能(餅は小さく、要見守り)。第一声『若いね、できるのかい』、最後『おふくろみたいなこと言うね』。評価:★★★★★。本日、よろこびの入口を、ひとつ直した」**


 保存。


 空が暮れていく。川越の冬の夕方は、東京よりひと足早く暗くなる。どこかの家から、出汁の匂いがした。


 みゆきはふと思った。今夜は自分も、ちゃんとしたあったかいものを、食べて帰ろう。とんかつでも、いい。よく、噛んで。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、ベッドの脇で、お雑煮を一膳、間に合わせた女。


 今日は、終電に乗らない。


 みゆきである。


(第17話 了)


---


*次回 第18話「年の瀬、大掃除事件」*




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