第18話 年の瀬、大掃除事件
十二月二十三日。年の瀬の世間は、大掃除で浮き足立っていた。
テレビは大掃除の特集。スーパーには、洗剤とごみ袋の山。みんな、一年の汚れを年内に片付けて、きれいな部屋で新しい年を迎えようとしている。
みゆきはその夜も、へとへとで帰ってきた。
年末は歯医者も書き入れ時だ。正月前に歯を治しておきたい人で、診療所は朝から晩まで埋まる。祝日のない師走を、みゆきは連勤で泳ぎきろうとしていた。回遊魚は年の瀬も止まれない。
冷蔵庫の横では、段ボールタワーが今夜も、静かにそびえていた。
言っておくと、あのタワーはただのゴミだ。通販の空き箱を開いて畳んで、積み上げただけ。中身は何も入っていない。資源ごみの回収日と、みゆきが家にいない金曜と日曜が五年すれ違い続けて、出しそびれているだけだ。捨てたくないわけじゃない。ただタイミングが合わない。それだけ。
みゆきは布団に倒れこんだ。指一本、動かしたくなかった。
そこへ、電話が鳴った。岡崎だった。
◇
「おう。今な、部屋の大掃除、終わったとこや」
岡崎の声は、やけにすっきりしていた。
「いやー、気持ちええわ。物、半分捨てたら、部屋、広なってな。床、見えるって、最高やで。──お前も、ちょっとやったらどうや。掃除」
「……うん。そのうち」
みゆきは目を閉じたまま答えた。布団が気持ちよかった。今はただ眠りたかった。
「そのうち、っていつや。あの段ボール、まだあるんやろ。年末くらい、ちょっとずつでも片付けたら、すっきりするって。俺、ほんま変わったぞ。掃除で、人生変わる」
「……うん」
「な? 物を減らすとな、頭もすっきりするんや。お前も、一回――」
「……ねえ」
「やってみ。だまされたと思て。掃除はな――」
みゆきの中で、何かが、ぷつん、と切れた。
◇
「もう、わかったって!」
みゆきは自分でも驚くくらい大きな声を出していた。
「あたしは、疲れてるの。今日、ずっと立ちっぱなしで、口の中、覗いて、帰ってきたの。掃除しろ掃除しろって、さっきから、何回言うの。あんたの部屋がすっきりしたのは、よかったね。でも、あたしは今、布団から動きたくないの!」
電話の向こうが、しん、と静かになった。
「……いや、俺は、ただ、お前のために」
「あたしのため、なら、疲れてる人に、掃除しろって言わないでよ」
みゆきは電話を切った。
そして勢いのまま、もう一通、送ってしまった。
「年末年始、来なくていい。一人で過ごす」
年末年始は、みゆきの家で一緒に過ごす約束だった。岡崎が、来る予定だった。それをたった今、自分でなかったことにした。
送信した瞬間、ほんの少しだけ、しまった、と思った。
だが、もう、送ってしまった。
◇
みゆきは、決められない女だ。
何を残して何を手放すか、いつも決められない。段ボールも、冷蔵庫の住人も、宮古島の恨みも、岡崎との関係も、ぜんぶ決めないまま抱えている。
なのに、こういうときだけ勢いで決めてしまう。そして決めてしまったことは、引っ込められない。撤回するというのも、ひとつの決断だからだ。みゆきはそれもできない。
だから、みゆきは、動けなくなった。
謝るのも、ちがう気がする。かといって、このまま、というのも。岡崎からの返信は来なかった。たぶん向こうも怒っている。あるいは、あきれている。みゆきはスマホを布団の脇に置いて、ただ天井を見ていた。
◇
年末年始が、来た。
みゆきは、一人だった。
仕事納めの日が来て、診療所も店も街も、ぜんぶ休みに入った。回遊魚の電車も本数が減って、車内はがらんとしていた。あれほど憎んでいた休みが、いきなりどっさり来た。なのにみゆきはちっとも、救われた気がしなかった。
あんなに眠りたかったのに、いざ休みになると、昼まで寝て、起きて、また寝るを繰り返すだけだった。布団はいつもより広く、寒かった。岡崎が来ない部屋は、こんなに静かだっただろうか。
冷蔵庫を開けると、住人たちがいた。岡崎がいないと、誰も摘発してくれない。みゆきは賞味期限切れのポン酢を見て、なぜか少し泣きそうになった。
段ボールタワーは相変わらずそびえている。今この部屋で起きているのは、たぶん、あたしと、このタワーだけだ。
(──掃除でも、するか)
みゆきはふと、思った。だが、結局、しなかった。一人でやる掃除は、世界でいちばん、むなしい。
◇
みゆきはスマホを取り出し、メモを開いた。
「大掃除事件、勃発(十二月二十三日)。岡崎、電話で掃除を連呼。当方、激務の果てに爆発、電話を切り、勢いで年末年始の約束まで取り消す。結果、一人で年を越すことが確定。なお掃除は、一ミリもしていない。評価:判定不能。完敗かもしれない」
保存。
大晦日が近づいてくる。みゆきはスマホを何度も見た。岡崎の名前を、何度も開いては閉じた。
会いたい、と打っては、消した。
あたしから言うのは、ちがう。あたしが切った電話だ。あたしが取り消した約束だ。みゆきの決められない意地が、たった四文字を送らせなかった。
今夜も、ひとり。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、自分で自分を、一人にした女。
今年は、たぶん、いちばん長い年の瀬になる。
みゆきである。
(第18話 了)
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次回 第19話「十二月三十日、午前二時」




