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第19話 十二月三十日、午前二時半


 十二月三十日。みゆきは、まだ一人だった。


 大掃除事件から、一週間。みゆきは岡崎に、ひとことも連絡できずにいた。明日は大晦日。このままだと、生まれて初めて、本当に一人で年を越すことになる。


 夜が更けていく。みゆきは布団の中で、目を開けていた。睡眠教の教祖は、こういう夜こそ、いちばん眠れない。


 部屋は静かだった。岡崎の出汁の匂いも、味噌汁の音も、エセ関西弁も、ない。冷蔵庫の住人を摘発する声も、ない。段ボールタワーが暗がりで、黙ってそびえているだけだった。


 静けさが、こんなに重いものだとは、思わなかった。


  ◇


 午前一時。


 みゆきはスマホを手に取った。


 岡崎の名前を、開く。この一週間、何度も開いては閉じた画面。打っては消した、あの四文字。


 みゆきは決められない女だ。何ひとつ決められない。だが今夜だけは、決めなければならなかった。このまま何も決めずに年を越したら、たぶん本当に、終わってしまう。終わらせるのがこわいなら、終わらせないほうに決めるしかない。


 みゆきは震える指で、四文字、打った。


 **「会いたい」**


 目をつぶって、送信した。


 送った瞬間、心臓がどくどく鳴った。今、何時だと思ってる。深夜だ。返事なんて来ないかもしれない。怒っているかもしれない。寝ているかもしれない。あたしは勝手に電話を切って、約束をぶち壊しておいて、今さら――


 既読が、ついた。


  ◇


 すぐに、電話がかかってきた。


 みゆきはおそるおそる、出た。


「……もしもし」


「おう」と岡崎の声がした。眠そうな声ではなかった。「今から、行く」


「えっ。──いや、もう終電、ないよ。あんた、あきる野でしょ。電車、ないって」


「車で行く」


「車って……二時間、かかるよ」


「夜やぞ。飛ばせば、一時間半で行くわ。何回、来てると思てんねん」


 電話の向こうで、ガチャ、と車の鍵を取る音がした。


「待っとけ。寝んでええ。──いや、寝てもええけど、鍵は開けとけ」


 電話は、切れた。


 みゆきはスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。あの男は、これから夜の道を一時間半、飛ばして、ここまで来る。あたしが四文字、送っただけで。


  ◇


 みゆきは、待った。


 することが、ない。落ち着かない。みゆきはふと、部屋を見回した。足の踏み場のない床。崩れかけの段ボールタワー。岡崎が見たら、また何か言うかもしれない。


(──ちょっと、片付けようか)


 みゆきは立ち上がりかけて、やめた。


 いや、ちがう。ここであわてて片付けたら、それは岡崎に屈したことになる。あたしは掃除しろと言われて、怒ったんだ。今片付けたら、筋が通らない。みゆきは意地でも、散らかったままの部屋で岡崎を迎えることにした。


 ……一応、布団の周りのピザポテトの袋だけは、捨てた。それくらいは許される範囲だと思った。


  ◇


 午前二時半。


 インターホンが、鳴った。


 みゆきがドアを開けると、岡崎が立っていた。コートの肩が、夜の冷気で冷たそうだった。一時間半、夜道を飛ばしてきた顔で、少し疲れていた。


「……来た」とみゆきは言った。


「来たわ」と岡崎は言った。


 岡崎は部屋に上がってきた。そして、いつものように、散らかった床と、崩れかけの段ボールタワーを、ぐるりと見た。


 みゆきは身構えた。来るぞ。「また、こんなに散らかして」が、来るぞ。


 だが、岡崎は何も言わなかった。


 掃除のことは、ひとことも口にしなかった。タワーのことも、床のことも。一時間半、夜道を飛ばして、この散らかった部屋にたどり着いて、そのことについては一文字も、言わなかった。


 みゆきはそれで、わかった。これが、岡崎の謝り方だった。


  ◇


「腹、減った」と岡崎が言った。


「こんな時間に?」


「一時間半、飛ばしてきたんやぞ」


 岡崎は台所に立って、冷蔵庫を開けた。そして、賞味期限切れの住人たちと、一週間ぶりに再会した。


「……なんで、まだ、おるんや」


「あんたが摘発しなかったからでしょ」


「お前が判決、下さんからやろ」


 みゆきは、ふっと笑ってしまった。一週間ぶりの、いつものやりとりだった。これだ。あたしがなくしたくなかったのは、たぶん、これだ。


 岡崎はありあわせで、味噌汁を作りはじめた。深夜二時半の出汁の匂いが、静かだった部屋に戻ってきた。


「……ごめん」とみゆきは、ぼそっと言った。「電話、切って。約束も、勝手に、なしにして」


「ええわ」と岡崎は、鍋を見たまま言った。「俺も、疲れてるお前に、しつこかったわ。──掃除の話は、もう、せえへん」


 その最後のひとことで、みゆきはちょっとだけ、泣きそうになった。


  ◇


 二人は、深夜三時に味噌汁をすすった。


 何も解決していなかった。別れたのか、別れてないのかも、相変わらず決まっていない。段ボールタワーは、まだ立っている。だが、年を越す前に、二人はちゃんと、同じ部屋にいた。それで、よかった。


 みゆきはスマホを取り出し、メモを開いた。


 **「十二月三十日。午前一時、当方が四文字を送信。岡崎、あきる野から車を飛ばし、午前二時半に来訪(夜間、約一時間半)。散らかった部屋を見て、掃除の件には一切触れず(=謝罪)。深夜の味噌汁にて停戦成立。なお冷蔵庫の住人は、全員健在。評価:★★★★★。年内に、間に合った」**


 保存。


 窓の外は、まだ暗い。もうすぐ大晦日。そして、新しい年が来る。みゆきは、しょっぱくない、ちゃんとした味噌汁をすすった。岡崎はソファで、もう舟を漕いでいた。夜道を飛ばしてきて、力尽きたらしい。


 先に救われた者の、寝顔だった。教祖はそれを、ちょっとだけ羨ましく、眺めた。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、四文字で、一人を呼び戻した女。


 今年も、あと一日。


 みゆきである。


(第19話 了)


---


*次回 第20話「初詣、睡眠党の野望」*



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