第20話 穴八幡宮、一陽来復
正月。みゆきは岡崎と、初詣に出かけた。
あの大掃除事件の夜から、二人は何事もなかったように、元に戻っていた。別れたのか別れてないのかは、相変わらず決まっていない。だが、年末年始を結局、一緒に過ごした。それでじゅうぶんだった。
行き先は、早稲田の穴八幡宮。雑司ヶ谷からは、目と鼻の先だ。東西線の早稲田駅、二番出口から歩いて三分。回遊魚にしては、ずいぶん近場の遠征だった。
よく晴れた、穏やかな正月だった。みゆきはめずらしく、何の予定も心配もない一日を過ごしていた。たまには、こういう日もある。
◇
穴八幡宮は、人であふれていた。
ここは初詣もさることながら、「一陽来復」というお守りで有名な神社だ。金運と商売繁盛のお守り。それを求める列が、正月でも長く伸びていた。
みゆきと岡崎は、まず拝殿にお参りした。カバンを下ろし、帽子を取って、二拝二拍手一拝。作法は、ちゃんと守る。みゆきは、こういう決まった手順が嫌いじゃない。
岡崎は目を閉じて、真剣に何か願っていた。あとで聞いたら、「商売繁盛と、出世」だった。青年会議所の男は、正月の願いまで意識が高い。
みゆきの願いは、ちがった。
(──どうか、六月に、祝日を。あと、全企業に、昼寝の時間を。それから、あたしの睡眠党に、議席を)
神様に、睡眠党の野望を丸投げした。金運より、睡眠。みゆきの信仰の優先順位は、ぶれなかった。
◇
お参りのあと、二人は一陽来復の列に並んだ。
みゆきは、壁に貼る筒状のお守りと、財布に入れる懐中のお守りを、両方受けた。金銀融通だから、両方持っておくに限る。
そして、一緒に渡された説明書きを読んで、みゆきの目が輝いた。
この一陽来復には、厳格なルールがあった。
貼っていいのは、年に三回だけ。冬至か、大晦日か、節分の、夜中の十二時ちょうど。一分でもずれたら、だめ。その年の恵方に向けて、決まった方角の高い壁に貼る。そして一度落ちたら、もう二度と貼り直せない。
みゆきは、震えた。
(──なんて、いいルールだ)
みゆきは、ルールのある世界が好きだった。睡眠教には教義がある。冷蔵庫には司法制度がある。車内には遭遇録の星がある。決まりごとがきっちりある世界は、安心する。この、深夜零時きっかり、という馬鹿みたいに厳密なお守りを、みゆきは一発で気に入った。
「……お前、なんで、そんな嬉しそうやねん」と岡崎が引いていた。
「ルールが、美しいから」
「こわ」
◇
ただ、ひとつ、問題があった。
このお守りは、決まった方角の、高い、まっさらな壁に貼らなければならない。
みゆきは、自分の部屋を思い浮かべた。
足の踏み場のない床。崩れかけの段ボールタワー。服と書類で埋まった、壁ぎわ。──まっさらな壁なんて、あの部屋に一面も、ない。
「貼る壁、あるんか? お前の部屋に」と岡崎が言った。
言ってから、岡崎は、しまった、という顔をした。掃除の話は、もうしない。そう約束したばかりだった。
だが、みゆきは今回は、怒らなかった。
(──次に貼れるのは、節分の夜中の零時。それまでに、一面だけ、壁を空けるか)
岡崎に言われたから、ではない。金運のためだ。一陽来復のためだ。みゆきは生まれて初めて、自分の意志で、部屋を一面だけ片付けようと思った。神様のためなら、段ボールタワーの一つや二つ、どかせる気がした。掃除しろと言われてできなかったことが、お守りのためなら、できそうだった。
人間は、勝手なものだ。みゆきは自分のことだから、よくわかっていた。
◇
説明書きには、一陽来復の意味も書いてあった。
「冬が去り、春が来ること」。「新年が来ること」。そして、「悪いことが続いたあと、ようやく物事が良いほうに向かうこと」。
みゆきはその、最後のひとつを、しばらく見ていた。
悪いことが、続いたあと。──年末の、あれのあとに、これか、と思った。電話を切って、約束をぶち壊して、一人で年を越しかけて。あの長い十二月の果てに、岡崎は車を飛ばして、来た。そして、年が明けた。
一陽来復。たしかに、そういう冬だった。
◇
二人は、おみくじを引いた。みゆきは小吉。岡崎は末吉。どちらも地味だった。
「お前、なんて書いてあった」
「『焦らず、待て』。あんたは?」
「『動くな』だった」
「……二人とも、寝てろってことだね」
「睡眠教の、お告げやな」
みゆきは、笑った。屋台で甘酒を買って、二人ですすった。寒い空の下の甘酒は、しみじみあたたかかった。となりで岡崎が、何でもない話をしている。みゆきはそれを、半分くらい聞いていた。
穏やかな正月だった。事件も、遭難も、変人も、いない。ただ二人で初詣をして、おみくじを引いて、甘酒を飲んだ。それだけの一日。
たまには、こういう日もある。あっても、いい。
◇
みゆきはスマホを取り出し、メモを開いた。
「正月、穴八幡宮にて初詣。一陽来復を拝受(壁掛け+懐中)。貼付は節分の夜中零時きっかり、恵方厳守、落下で無効。──このルールの美しさに感動。なお貼る壁が部屋になく、節分までに一面、片付けることを決意(神様のため)。おみくじ、二人そろって『動くな』。評価:★★★★★。事件なし。良い一日」
保存。
帰り道、みゆきは懐中のお守りを、財布にそっとしまった。金運が来るかは、わからない。だが、悪い冬は、もう終わった。あとは良いほうに向かうだけ、らしい。お守りが、そう言っている。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、神様に、祝日の新設を陳情した女。
今年が、始まった。
みゆきである。
(第20話 了)
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次回 第21話「新京成線、きゅうり結社の初詣」




