第21話 新京成線、きゅうり結社の新年
松の内も、半ば。みゆきの正月休みは、あっという間に終わった。
回遊魚に、長い休みは似合わない。年が明けて数日もすれば、もう、いつもの一週間が回りはじめる。みゆきは初仕事を終え、初富からの帰り道、いつもの新京成線に揺られていた。
車内には、まだ正月の気配が残っていた。しめ縄を提げた家。初詣帰りらしい、晴れ着の人。網棚の上の、お年賀の紙袋。一年でいちばん、世間がのんびりしている時期だ。
穏やかな正月だった、とみゆきは思う。岡崎と初詣に行って、おみくじを引いて、甘酒を飲んだ。事件も、遭難も、変人も、いなかった。
──だが、それも、ここまでだった。
◇
向かいの席の初老の男が、紙袋から、おもむろにきゅうりを取り出した。
塩もつけず、丸かじり。ぽりぽり、といい音。
みゆきの背筋が、ぴん、とのびた。
きゅうり結社だ。あの、塩なし丸かじりの秘密結社。あれから何度か、見かけている。新京成線にひっそり息づく、沿線最大の謎。正月だろうが松の内だろうが、彼らは平常運転だった。
みゆきはそっと、車内を見渡した。
いた。二人目。三人目。今夜も何人かの構成員が、思い思いの席で、きゅうりをかじっている。だが、いつもと何かがちがった。
みゆきは、目をこらした。
◇
構成員たちは、きゅうりを、すぐにはかじらなかった。
まず、めいめいがきゅうりを、すっと胸の高さまで持ち上げた。そして互いに、小さくうなずき合う。それから、ようやくひとくち。
乾杯だった。
きゅうりで、乾杯していた。
みゆきは悟った。これは新年の、きゅうり乾杯だ。彼らは酒の代わりに、きゅうりを掲げて、新しい年を祝っていた。無言で。厳かに。誰にも気づかれないように。新京成線の、揺れる車内で。
なぜ、きゅうりなのか。なぜ、酒ではないのか。なぜ、正月にこれをやるのか。いつもの「なぜ」が、また、みゆきの中でふくらんだ。そして、いつものように、答えはひとつも出なかった。
◇
向かいの男が、ふと、みゆきを見た。
そして紙袋から、新しいきゅうりを一本取り出して、みゆきのほうへ、すっと差し出した。
来た、とみゆきは思った。
みゆきは、もう知っている。いつだったか忘れたが、とにかく以前、自分はうっかり、この結社に入会している。だから、新年の乾杯にも声がかかった。一度入ったら、抜けられない。会費も、規約も、わからないのに。
みゆきは観念して、きゅうりを受け取った。
◇
ところで、みゆきは下戸である。
院生のころ、銀座のクラブでバイトをしたことがある、と、時々自慢げに匂わせるが、真相は、そこで自分が酒に殺人的に弱いと気づいて、一週間で辞めた、というだけの話だ。
だから、みゆきは乾杯が苦手だった。新年会も、忘年会も、あの「とりあえずビール」の一杯が、いつもこわい。みんながぐいぐいいくなか、一杯で限界を迎えてしまう。
だが、これはちがった。
きゅうりの乾杯。これなら、いける。何本でも、いける。酔わない。つぶれない。明日に残らない。みゆきは生まれて初めて、心から安心して、乾杯に参加できた。
みゆきは構成員たちにならって、きゅうりを胸の高さに掲げた。
向かいの男が、うなずく。みゆきも、うなずき返す。それから、ひとくち。
ぽりぽり。
しみじみ、うまかった。塩なんて、いらなかった。新年の、青い、まっすぐな味がした。
(──あけまして、おめでとう、なのかもしれない)
みゆきは、心の中でそう思った。たぶん、合っている気がした。
◇
電車が、初富に着いた。
みゆきが降りると、向かいの男も降りた。そしてホームで、軽く会釈をして、夜のなかへ歩き去っていった。最後までひとことも、なかった。なぜ、きゅうりなのかも、なぜ、乾杯なのかも、相変わらず、わからない。
だが、それでいい、とみゆきは思った。世の中には、説明されないほうがいいものがある。きゅうり結社は、たぶん、その筆頭だ。乾杯のわけなんて、聞かないほうが、きっと、めでたい。
みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。
**「新京成線、きゅうり結社、新年仕様を確認。塩なしきゅうりにて、無言の乾杯を挙行。当方も会員として参加(下戸ゆえ、酒よりきゅうりが性に合う)。目的・由来、例によって不明。評価:★★★★★。今年も、謎は健在」**
保存。
窓の外を、松の内の夜が流れていく。しめ縄の飾られた、暗い家並み。みゆきはなんとなく、晴れやかな気分だった。
平和な正月も、よかった。だが、こういう、わけのわからないものに、ぬるりと巻き込まれる夜のほうが、回遊魚には性に合っている。たまの平和は、たまだから、いい。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。きゅうり結社、会員(新年も継続)。
今日も、終電の一本手前。
みゆきである。
(第21話 了)
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*次回 第22話「房総横断、スイカは効かない」*




