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第22話 房総横断、スイカは効かない

 第二水曜。みゆきの、月に二度しかない、平日の休みだった。


 よく晴れた、冬の日だった。みゆきはふと思い立って、一人で出かけることにした。行き先は、房総横断。いすみ鉄道と小湊鐵道を乗り継いで、千葉を横に、ことことと突っ切る、のんびりした鉄道の旅だ。外房の大原から、上総中野で乗り換えて、内房の五井まで。


 みゆきは、自信に満ちていた。回遊魚にとって、電車は庭である。しかも、千葉は地元だ。初富で、生まれ育った。負ける要素が、どこにもない。


 そう、思っていた。


  ◇


 大原駅。みゆきはいすみ鉄道の改札に、いつものくせで、スイカをかざした。


 ピッ、と、鳴らなかった。


 もう一度、かざす。鳴らない。みゆきはしばらく、固まった。


 そこに、貼り紙があった。「当線では、スイカ・パスモなどの交通系カードは、ご利用になれません」。


 ここは、スイカの効かない国だった。


 みゆきの、いちばん信頼している武器。週に二十四時間、東京じゅうの改札を、ピッと鳴らして泳ぎ回ってきた、あの一枚。それが、ここでは、ただの青い、プラスチックの板に成り下がっていた。地元の千葉で、スイカが、西瓜ほどの役にも立たなかった。


 みゆきは窓口で、紙の切符を買った。久しぶりに見る、本物の、硬い切符だった。


  ◇


 やってきたのは、一両だけの、かわいい電車だった。ワンマン運転。運転士が一人で、全部やる。


 みゆきが乗ろうとすると、入口に、小さな機械があった。何か、紙が出ている。


(──これは……?)


 整理券、というやつだった。どこから乗ったかを証明する紙。降りるときに、これと運賃を運賃箱に入れる。バスと同じ仕組みだ。みゆきは知識としては、知っていた。だが、実物を前にすると、手が止まった。取るのか。取らないのか。切符が、あるのに?


 都会の改札は、考えなくても、体が勝手に動く。だが、こののどかな一両は、みゆきの自動化された体を、ことごとく混乱させた。お釣りの出ない運賃箱。両替機。降りるのは、一番前の扉だけ。何ひとつ、東京が通用しなかった。


 回遊魚は、見知らぬ海で、ぱくぱくと口を開けるしか、なかった。


  ◇


 電車は、のどかな田園を、ことこと進んだ。


 窓の外は、見事になにもなかった。冬枯れの田んぼ。低い山。遠くの鉄橋。ときどき、人より牛のほうが多いんじゃないかと思う、景色。東京の濁流が、嘘みたいだった。


 そして、上総中野駅に着いた。


 いすみ鉄道と、小湊鐵道の乗り換え駅。小さな木造の駅舎が、ぽつんと建っているだけだった。改札も、駅員も、いない。みゆきはここで、小湊鐵道に乗り換えるはずだった。


 時刻表を、見た。


 次の電車は、一時間後だった。


  ◇


 遭難だった。


 日暮里とは、種類がちがった。あれは、人と迷宮の遭難だった。これは、なにもないことによる、遭難だった。あたりには、山と、空と、線路しか、ない。スマホの電波も、心細い。一時間、ここからどこにも、行けない。


 みゆきは、ホームの古いベンチに座った。


 することが、なかった。本当に、何もなかった。電車は来ない。店もない。喋る相手もいない。みゆきはただ、冬の日なたの中で、ぽつんと座っていた。


 ……不思議と、嫌な気分では、なかった。


  ◇


 回遊魚は、止まれない生き物だ。


 みゆきは、いつも泳いでいる。終電を追い、診療所を回り、訪問先へ急ぐ。睡眠教の教祖のくせに、誰よりも眠れない。止まったら死ぬ魚みたいに、いつも動いている。


 だが、ここでは、止まるしかなかった。電車が来ないのだから。あたしの意志とは関係なく、世界のほうが、止まっていた。


 みゆきは、ベンチにもたれた。日なたが、あたたかかった。鳥の声。風の音。それ以外、なにもない。まぶたが、重くなってきた。


 教祖は、ゆっくりと目を閉じた。


 眠るモノは、救われる。──ここでは、たぶん、それが許されていた。


 みゆきは、誰もいない田舎の駅のベンチで、冬の日なたに抱かれて、ことん、と昼寝をした。生まれて初めて、と言っていいくらい、まっとうな昼寝だった。遭難が、くれたごほうびだった。


  ◇


 一時間後。


 ことこと、と、小湊鐵道の電車がやってきた。


 みゆきは、すっきりした顔で立ち上がった。今度は、ちゃんと整理券を取った。一回遭難すると、人は学ぶ。


 みゆきはスマホを取り出し、「駅遭難録」を開いた。


 **「房総横断にて遭難。上総中野駅。スイカ不発(当地では西瓜以下)、整理券に苦戦、運賃箱は釣り銭なし。次の電車まで一時間、完全停止。ただし日なたにて、人生屈指の昼寝に成功。評価:★★★★★。日暮里と同じ遭難でも、こっちは優しい」**


 保存。


 電車は、ことこと、五井へ向かって走り出した。窓の外を、冬の千葉が、ゆっくり流れていく。みゆきはなんだか、ずいぶんよく眠った気がした。


 たまには、止まるのも悪くない。止まらないと、見えない景色もある。回遊魚は、そんなことを、生まれて初めて思った。──たぶん、明日には忘れるけれど。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、なにもない駅で、救われた女。


 今日は、終電に乗らない。


 みゆきである。


(第22話 了)


---


*次回 第23話「初富の歯医者、鈴木さんの来院」*


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