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第23話 初富の歯医者、鈴木さんの来院


 冬の、初富の診療所。

 みゆきはいつものように、石油ストーブのやかんを、しゅんしゅん鳴らしながら、高齢の患者を相手にしていた。たくあんを受け取り、世間話を聞き、入れ歯を調整する。穏やかな、いつもの一日。

 だが、その日の予約表には、ひとつ、見慣れない名前があった。

 鈴木さん。

 みゆきには、その名前に覚えがあった。

  ◇

 受付に現れたのは、五十がらみの、人のよさそうな男の人だった。

 みゆきはひと目で、思い出した。あの夜の人だ。終電の一本前。転んで、前歯を根元から、すっぽり脱臼させた人。みゆきが車内で、生理食塩水で洗って、血まみれの穴に押し戻した、あの人。

「先生! あの、電車の!」と鈴木さんは、顔を輝かせた。

「鈴木さん。──歯、どうですか」

「それなんです。それを見てもらいたくて」

 鈴木さんはわざわざ、東京から初富まで、やってきていた。あの夜、みゆきが渡した診療所の名刺を、握りしめて。近くにも、歯医者はいくらでもあっただろうに。それでも彼は、ここまで来た。

「あの夜の、おねえさんに、診てもらいたくて」

 おねえさん。

 みゆきの自尊心が、ほんのり満たされた。今日も、おばちゃん、ではなかった。

  ◇

 みゆきは鈴木さんを、診察台に座らせた。

 あの夜、車内で再植した前歯。あれから鈴木さんは、ちゃんと救急の口腔外科で固定してもらい、根管治療も受けたという。そして、その後の経過を、ずっとここ、初富まで通って、診させてくれていた。

 再植は、時間との勝負だ。抜けた歯を、乾かさず、歯根膜を傷めず、どれだけ早く戻せるか。みゆきはあの夜、揺れる車内で、その勝負に勝った、はずだった。だが、本当に骨とくっついて生着するかどうかは、ここまで来てみないと、わからない。賭けだった。

 みゆきは慎重に、その前歯を調べた。ぐらつきを確かめる。レントゲンを見る。

 ……ついていた。

 あの夜の歯は、ちゃんと鈴木さんのあごの骨に、根を張って定着していた。再植は、成功していた。賭けに、勝っていた。

「鈴木さん。この歯、もう大丈夫です。ちゃんと、ついてます」

 鈴木さんは、その前歯を舌でそっと確かめて、それから、くしゃっと笑った。前歯のそろった、いい笑顔だった。

  ◇

 みゆきは思う。

 電車の中では、あたしは誰でもない。ただ、人の口元を勝手に観察している、変な女だ。名前も知られない。だが、あの夜だけは、ちがった。あたしは見ず知らずの人の、抜けた歯を、その手で戻した。そしてその歯は、今こうして、その人の顔で、笑っている。

 歯は、食べる道具で、しゃべる道具で、そして、笑う道具だ。前歯がないと、人は思いきり笑えない。あたしはあの夜、鈴木さんの笑顔をひとつ、終電の床から拾い上げて、戻したのだ。

 わるくない仕事だ、と、また思った。

  ◇

 ところで、初富の診療所の待合室は、社交場である。

 みゆきが鈴木さんを治療しているあいだに、話はもう、待合室じゅうに広まっていた。発信源は、たぶんハナさんだ。

「ねえ、聞いた? みゆきちゃん、電車で人の歯を、くっつけたんだって」

「あらまあ、お父さん先生の、娘さんだもんねえ」

「ヒーローだねえ、みゆきちゃん」

 みゆきが治療を終えて待合室に出ると、おばあちゃんたちが、いっせいに拍手をした。なぜか、たくあんとみかんが、追加で献上された。電車の再植が、初富で伝説になっていた。

 みゆきは東京では誰でもない観客で、初富では院長の娘で、そして今日からは、たぶん、電車で歯をくっつける、おねえさん先生だった。妙な二つ名が、増えた。

  ◇

 鈴木さんは帰り際、何度も頭を下げた。そして、紙袋を差し出した。

「これ、つまらないものですが。──東京の、お土産です」

 中身は、人形焼きだった。初富の患者は、たくあんをくれる。東京から来た鈴木さんは、人形焼きをくれた。お礼の形は、土地によってちがう。だが、気持ちはおなじだった。

「先生に会えて、よかった。あの夜、先生がいてくれて、本当に」

「いえ。歯医者なんで」

 みゆきはそう言って、笑った。歯医者なんで。それ以上の説明は、いらなかった。

  ◇

 みゆきはスマホを取り出し、メモを開いた。

 「初富にて、鈴木さん来院。終電車内で再植した前歯、生着を確認。賭けに勝利。患者、わざわざ東京から通院(近所の歯医者を全部、無視して)。本日も『おねえさん』呼びを獲得。なお当方、待合室にて伝説化、たくあんと人形焼きを得る。評価:★★★★★。電車の一本が、ちゃんと実家まで、つながった」

 保存。

 窓の外は、初富の冬の夕暮れ。みゆきは、もらった人形焼きを、ひとつ口に入れた。あんこが、甘かった。よく噛んで、食べた。自分の歯でちゃんと噛めるのは、当たり前のようで、たぶん、けっこう、ありがたいことだった。

 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。初富では、院長の娘で、電車で歯をくっつける、おねえさん先生。

 今日は、終電に乗らない。

 みゆきである。

(第23話 了)

________________________________________

次回 第24話「節分、一陽来復の夜」


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