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第24話 節分、一陽来復の夜


 節分の夜。みゆきの部屋に、めずらしい光景があった。

 壁が、一面だけ、空いていた。

 正月に、穴八幡宮で受けた一陽来復のお守り。あれを貼るために、みゆきはこの一か月、こつこつと、北北西の壁を片付けてきた。積み上がっていた段ボールを、ようやく資源ごみに出し、ふさいでいた荷物をどけた。生まれて初めて、自分の意志で、壁を一面、取り戻した。

 岡崎に言われたから、ではない。掃除しろと命じられてできなかったことが、お守りのためなら、できた。神様は、岡崎よりずっと、人を動かす。みゆきは自分の単純さに、われながらあきれた。

  ◇

 今夜は、その、お守りを貼れる夜だった。

 一陽来復を貼っていいのは、年に三回だけ。冬至か、大晦日か、節分の、夜中の十二時ちょうど。一分でもずれたら、だめ。正月に受けたみゆきにとって、次の機会が、この節分の夜だった。

 みゆきは、準備に余念がなかった。

 賃貸なので、壁に直接、糊はつけられない。だからまず、白い台紙を、決めた位置に固定する。方角は、コンパスのアプリで、何度も確かめた。お守りの「一陽来復」の文字が、今年の恵方──南南東のほうを向くように。貼る高さは、目線よりずっと上。

 みゆきは、こういう、きっちりした手順が、たまらなく好きだった。睡眠教の教義。冷蔵庫の司法制度。遭遇録の星。そして、この、深夜零時きっかりの神事。ルールが厳密であればあるほど、みゆきの胸は高鳴った。

  ◇

 助っ人も、いた。岡崎である。

「なあ、本当に、零時ちょうどに貼るのか」

「ちょうど。一分でも過ぎたら、無効」

「こわ。なんの儀式だよ」

 岡崎はぶつぶつ言いながらも、ちゃんと椅子を押さえてくれていた。みゆきがその椅子に乗って、高い壁に手を伸ばす。岡崎は下から、コンパスを掲げて、方角の最終確認をする係になった。深夜の、夫婦の共同作業のような、間抜けな神々しさがあった。

 みゆきはスマホに、アラームを三つ、セットしていた。十一時五十五分。五十八分。五十九分三十秒。万に一つも、零時を逃さないために。

「お前、終電の乗り換えより、真剣だな」

「当たり前でしょ。金運が、かかってるの」

  ◇

 時計が、午後十一時五十九分になった。

 みゆきは椅子の上で、お守りを構え、息をつめた。台紙は、貼ってある。方角は、確認した。あとは零時の、その瞬間に、貼るだけ。

 岡崎が、スマホの秒数を読み上げる。

「……二十秒前。十秒前。──五、四、三、二、一」

 日付が、変わった。

 みゆきはその瞬間に、お守りを台紙の上に、ぴたりと押し当てた。文字は、ちゃんと南南東を向いている。零時、ちょうど。誤差は、たぶん一秒もない。

 みゆきは、そっと手を離した。

 お守りは、落ちなかった。壁の高いところで、一陽来復の四文字が、静かに恵方を向いて、おさまっていた。

「……ついた」とみゆきは言った。

「ついたな」と岡崎も言った。

 二人はしばらく、その小さなお守りを見上げていた。終電の再植より、静かで地味な、勝利だった。

  ◇

 一陽来復、という言葉の意味を、みゆきはまた、思い出していた。

 冬が去り、春が来ること。悪いことが続いたあと、ようやく物事が、良いほうに向かうこと。

 去年の暮れは、ひどかった。電話を切って、約束をぶち壊して、一人で年を越しかけた。あの長い冬の底から、ここまで来た。岡崎は車を飛ばして、来てくれた。年が明けた。そして今、自分で片付けた壁に、春を呼ぶお守りが、貼ってある。

 たしかに、一陽来復だ、とみゆきは思った。悪い冬は、もう終わったらしい。お守りも、壁も、そう言っている。

  ◇

 貼り終えると、岡崎が台所から、恵方巻きを二本、持ってきた。

「節分だからな。買っといた」

 二人は南南東を向いて、無言で、太巻きにかぶりついた。喋ると、ご利益が逃げる、という。みゆきは、こういう、黙って決まった方角を向く儀式が、どうにも性に合う。きゅうり結社の乾杯と、どこか似ていた。

 みゆきの恵方巻きには、なぜか、とんかつが入っていた。岡崎が、肉好きのみゆきのために選んだらしい。無言のまま、みゆきはそれを、もぐもぐ食べた。うまかった。豆は、面倒なので、まかなかった。

  ◇

 みゆきはスマホを取り出し、メモを開いた。

 「節分、一陽来復、貼付に成功。零時きっかり、誤差ほぼゼロ、恵方も完璧、落下なし。なお貼付のため、北北西の壁を自力で一面、開通(人生初)。岡崎はコンパス係として従事。恵方巻きは、とんかつ入り。評価:★★★★★。悪い冬は、終わった、らしい」

 保存。

 壁の上で、お守りはじっと、春の方角を向いていた。みゆきは、布団にもぐりこんだ。零時を過ぎても起きていた夜は、ひさしぶりだった。睡眠教の教祖は、神事のためなら、夜更かしもいとわない。

 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、壁を一面、取り戻し、春を一枚、貼りつけた女。

 冬が、終わる。

 みゆきである。

(第24話 了)

________________________________________

次回 第25話「総武線、しっぽの男の春」



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