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第25話 総武線、しっぽの男の春



 立春を過ぎると、車内から少しずつ、厚いコートが減っていった。


 春は、別れの季節だ。三月が近づくと、通勤電車の顔ぶれが入れ替わる。異動。卒業。引っ越し。毎晩、同じ車両で見るともなく見ていた人たちが、ある日ふっと消える。名前も知らないまま、二度と会わなくなる。


 みゆきは最近、それを感じていた。


 いつも同じ位置で寝ていた新鎌ヶ谷の眠り姫を、しばらく見ていない。フルコースのオーラルケアの男も、このところご無沙汰だ。みんな、春の流れにさらわれていく。みゆきの、名もなき夜の知り合いたちは、こうして季節ごとに、静かに入れ替わっていく。


 そしてふと、思った。


(──そういえば、しっぽの男も、しばらく見ていない)


  ◇


 しっぽの男。


 鞄から、毎回ちがう動物のしっぽを出している、あの正体不明の男だ。猫。柴犬。たぬき。この前は、縞模様の長いやつ。中身も目的も、何ひとつわからないまま、何度もすれ違ってきた。


 もし、あの男も春に、どこかへ異動してしまったら。


 みゆきはたぶん、永遠に知らないままだ。あの鞄の中身も、なぜしっぽを出すのかも、今夜のが何の動物だったのかも。名前すら、知らない。知らないことだらけのまま、ただ、いなくなる。


 なんだか、少し心細かった。匿名のままの知り合いは、別れも匿名で、やってくる。


  ◇


 ところが。


 その夜、総武線のいつもの席に、男はいた。


 鞄から、ちゃんと、しっぽが出ていた。みゆきはほっとした。春にさらわれて、いなかった。よかった。なぜよかったのか、自分でもよくわからなかったが、とにかく、よかった。


 みゆきはいつものくせで、そのしっぽを観察した。歯を読むように、しっぽを読む。職業病は、春になっても健在だった。


 今夜のしっぽは、ふさふさで、長くて、先のほうが白かった。


(──今日は、よく見える)


 いつもは、人や揺れに邪魔されて、はっきり見えない。だが今夜は、車内が空いていて、しっぽがまるごと、視界に入っていた。みゆきは、今度こそ、と目をこらした。


  ◇


 よく、見えた。


 はっきり、見えた。


 なのに、わからなかった。


 ふさふさで、長くて、先が白くて、根元が薄い茶色。猫にしては、太い。きつねにしては、短い。たぬきにしては、上品すぎる。リスにしては、大きすぎる。みゆきの頭の中の動物図鑑を、ぜんぶめくっても、そのしっぽにぴたりと合う動物は、一匹もいなかった。


 隠されて見えないのなら、まだわかる。だが、これは、はっきり見えているのに、わからない。見えれば見えるほど、わからなくなる。みゆきは、ぞくっとした。これはたぶん、いちばん上等な謎だった。


  ◇


 男は、次の駅で立ち上がった。


 降りぎわ、みゆきと目が合った。男はいつものように、ほんの少しだけ口角を上げて、会釈のような何かをして、しっぽを揺らして、春の夜のホームへ消えていった。


 今夜も、何もわからなかった。だが、いなくは、なっていなかった。それでじゅうぶんだった。


 みゆきは思った。眠り姫も、オーラルケアの男も、いつか本当に、春にさらわれて、二度と来なくなる日が来るのかもしれない。しっぽの男も、いつか。あたしの名もなき知り合いは、みんな、いつかは消える。


 でも、それは今夜じゃ、なかった。今夜はちゃんと、しっぽが揺れていた。それでよかった。わからないものが、わからないまま、まだそこに、いてくれる。春の入り口の、ささやかな安心だった。


  ◇


 みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。


 **「しっぽの男、春も健在(異動せず)。本日のしっぽは、ふさふさ・長め・先白。車内が空いており完全に視認できたにもかかわらず、該当動物の特定に失敗。見えても、わからず。──謎の格としては、過去最高。評価:★★★★★。まだ、いてくれた」**


 保存。


 窓の外を、少しだけゆるんだ夜の空気が、流れていく。気の早い、どこかの庭の梅の匂いが、した気がした。冬は、もう終わりかけている。


 たくさんの人が、春に消えていく。それでも、まだ揺れているしっぽが、ある。わからないものが、わからないまま、ちゃんと生きている。みゆきは、そういう夜が、けっこう好きだった。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日も、しっぽの鑑定に敗北。ただし、再会には成功。


 今日も、終電の一本手前。


 みゆきである。


(第25話 了)


---


*次回 第26話「初富の歯医者、卒業の春」*




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