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第6話 池袋、レースの貴婦人

 みゆきには、ささやかな幸せがある。


 ジムで一時間追い込んだあと、その帰りにがっつりした肉をテイクアウトすることだ。


 とんかつまい泉のロースかつ。あるいは、いきなりステーキ。重たい紙袋を提げて電車に乗り、家に着いたら湯気の残る肉にかぶりつき、そのまま布団にダイブする。これがみゆきにとっての天国だった。


 ジムで健康のために汗をかき、その足でとんかつを買う。矛盾しているように聞こえるかもしれない。だがみゆきに言わせれば矛盾ではない。運動した分は食べていい。これは世界の真理である。むしろ、とんかつのためにジムに行っている、と言ってもいい。


 その夜もみゆきは、まい泉の紙袋を提げて池袋で乗り換えようとしていた。


 頭の中はもう、ロースかつでいっぱいだった。早く帰りたい。熱いうちに食べたい。そして寝たい。それ以外のことは何ひとつ考えていなかった。


 だから、油断していた。


  ◇


 ホームへおりる階段の途中に、小さな人の滞りがあった。


 一人の女性が立ち止まって困っている。


 白いレースのワンピース。上品で、たぶんそれなりに値の張る装い。彼女は肩から提げた小ぶりの鞄の、ファスナーの引き手をしきりに引っぱっていた。


 チャックが、レースに嚙んでいた。


 繊細なレースの一部がファスナーの金具にしっかり巻き込まれて、彼女は抜くに抜けず、進むに進めず、人の流れのなかで立ち往生していた。


 彼女がふと顔を上げて、みゆきと目が合った。


 その目が言っていた。──助けて。


  ◇


 みゆきの中で、葛藤が始まった。


 紙袋の中でロースかつが、刻一刻と冷めていく。衣のサクサクは時間との勝負だ。一分遅れれば、一分ぶん天国が遠ざかる。あたしは今、人生でいちばん家に帰りたい。


 それにみゆきは本来、こういうとき声をかけない。問いかけは劇を壊す。観察者の流儀だ。


 だが、あの目。


 みゆきは、自分の手の中の紙袋と、女性のレースを見比べた。とんかつか。人助けか。サクサクか。良心か。


(──……まあ、衣は、冷めてもうまい)


 みゆきは観念した。


「あの。それ、引っぱるとレース裂けますよ。──ちょっと、いいですか」


「えっ、あ、いや〜、いいです、いいです、自分で……」


 女性はそう言いながらも、鞄を差し出してきた。口では遠慮し、手は助けを求める。みゆきは、その矛盾が嫌いではなかった。


  ◇


 みゆきは、嚙んだレースを糸の一本一本、ファスナーの溝から外していった。


 歯石をスケーラーで取るときと同じ手つきだった。細かい作業は得意だ。毎日、人の口の中でミリ単位の仕事をしている。ロースかつのことは、いったん頭の隅に追いやった。今はこのレースの救出が最優先だ。


 ぷつ、とも言わせず、レースは無傷で外れた。


「わぁ……ありがとうございます……! あの、私のせいで電車、行っちゃいましたよね……次のを待つことに……お急ぎだったのに……」


 女性は心底、申し訳なさそうに言った。みゆきは首を振った。


「大丈夫です。あたし、もともと座らないので」


 なぜか自慢のような言い方になってしまった。


 女性は何度も頭を下げ、レースをふわりと揺らして去っていった。その肩で揺れる小ぶりの鞄には、見覚えのある馬車の刻印が入っていた。エルメスだった。


 みゆきは見送りながら思った。


 あたしはたぶん、この人とは住む世界がちがう。エルメスとレースの上品で静かな世界に、とんかつの匂いをさせて間違って紛れ込んだ、場違いな女だ。あの人はレースに嚙まれて困り、あたしはロースかつが冷めるのを心配している。レースと、ロース。響きはこんなに近いのに、住む世界はこんなに遠い。


  ◇


 みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。


 **「池袋。レースのワンピースの貴婦人、鞄のチャックがレースに嚙んで立ち往生。糸一本ずつ救出、無傷。エルメス所持。金持ちは困り方まで上品。なお救出中、こちらのロースかつは冷えた。評価:★★★★☆」**


 保存。


 みゆきは紙袋を提げ直し、次の電車に乗り込んだ。座れなかった。だが、もともと座らない。問題ない。問題があるとすれば、とんかつがもう完全に常温だということくらいだ。


  ◇


 家に着いたのは、日付が変わるころだった。


 みゆきは部屋着に着替え、当然、風呂には入らず、冷めたロースかつの蓋を開けた。


 ……うまかった。


 冷めても、とんかつはとんかつだった。衣はしんなりしていたが、それはそれで、夜中に食べる背徳の味がした。みゆきはソースをたっぷりかけ、白飯と一緒に無心でかきこんだ。一日中、ゲロを躱して、レースを救って、肉にたどり着いた。この一切れのためにあたしは生きている。たぶん。


 食べ終えると、もう、まぶたが重かった。


 だが、ここでみゆきの悪い癖が出る。小腹が、まだ少しだけすいているのだ。とんかつ一枚を平らげておいて、まだ、すく。みゆきは戸棚からピザポテトを取り出した。半分食べて、ついでにチョコも二粒。


(──明日の朝はちゃんとオイコス食べるから、いい)


 例の筋肉系ユーチューバーが、毎朝オイコスを食べろと言っていた。みゆきはその教えだけは、なぜか守っている。睡眠教と、きゅうり結社と、オイコス。あたしの信仰は、もう、ぐちゃぐちゃだ。


 みゆきはピザポテトの油のついた指のまま、布団にもぐりこんだ。


 歯磨きは……たぶん、二回に一回の、磨かないほうの回だった。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。きゅうり結社、新入会員。そして、とんかつを愛する女。


 今日も、終電の一本手前を、無事に生き延びた。


 みゆきである。


(第6話 了)


---


*次回 第7話「新鎌ヶ谷で起こしてください」*




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