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第5話 沿線きゅうり結社

 みゆきの一日は、たいてい新京成線で終わる。


 新鎌ヶ谷を過ぎ、初富へ向かう二両編成のローカル線。深夜になると客はぐっと減り、車内は妙に静かになる。みゆきはこの、世界の隅っこみたいな時間が嫌いではなかった。


 ところで、新京成線はやたらと曲がっている。


 地図で見ると、まるで酔っぱらいが歩いた跡みたいにくねくね蛇行している。まっすぐ行けば近いはずの駅と駅を、わざわざ大回りして結んでいる。


 これには理由がある。


(──この線はもともと、旧陸軍の鉄道連隊が線路を敷く練習に使った、演習線の跡だ)


 兵隊が鉄道の敷設訓練をしていた。なるべく長い距離で練習したいので、わざと遠回りにくねくね敷いた。その名残が今も、みゆきを乗せてだらだらと蛇行している。つまりみゆきは毎晩、百年前の兵隊の「練習の成果」に揺られて家に帰っている。


 そんな、世界一どうでもいい豆知識を噛みしめていた、そのときだった。


  ◇


 向かいの席に座った老婦人が、紙袋からおもむろにきゅうりを一本取り出した。


 そして塩もつけず、丸かじりを始めた。


 ぽりぽり、といい音がした。


 みゆきはつい、その口元を見てしまう。


(──総入れ歯だ。なのに、あの咀嚼。あの咬合。作った技工士、名人だな)


 ふつうなら、ここで話は終わる。きゅうりを食べる元気なお婆さん。それで済む。みゆきは星をつけ、遭遇録に一行書いておしまいにするはずだった。


 だが今夜はちがった。


 二人目が、いた。


  ◇


 三人ぶん向こうの席で、スーツの中年男が鞄から何かを取り出した。


 きゅうりだった。


 塩もつけず、丸かじり。ぽりぽり。同じ、いい音。


 みゆきの背筋がすうっと冷たくなった。


 偶然ではない。一両に、きゅうりを丸かじりする人間が二人。確率を考えてみる。終電前の新京成線で、塩なしきゅうりの同時遭遇。これはもう、偶然という言葉では片づかない。


 みゆきはそっと車内を見渡した。


 いた。三人目。扉の脇に立った若い女が、トートバッグからきゅうりを取り出すところだった。


(──結社だ)


 みゆきは悟った。


 この沿線には結社がある。きゅうりを塩もつけず丸かじりする者たちの、秘密の結社が。誰にも知られず、夜の新京成線にひっそりと息づいている。


  ◇


 みゆきは観察した。


 三人は互いに言葉を交わさない。だがときどき目が合うと、ほんの小さくうなずき合う。きゅうりを少し持ち上げ、また、かじる。それはまるで乾杯のような、あるいは何かの合図のような、静かな所作だった。


 みゆきの頭に、いくつもの「なぜ」が浮かんでは消えた。


 なぜきゅうりなのか。なぜ塩をつけないのか。なぜ新京成線なのか。なぜ終電前なのか。彼らはいつ、どこで入会するのか。会費はあるのか。きゅうりは経費で落ちるのか。


 答えはひとつも出なかった。


 冷静に考えれば、ただ知らない人がきゅうりを食べているだけの、なんでもない夜のはずだった。だが現実は容赦がない。現実は淡々と、きゅうりを差し出してくる。


 そしてその「差し出してくる」が、文字どおりに起きた。


  ◇


 向かいの老婦人がふと、みゆきを見た。


 みゆきの視線に気づいていたらしい。


 老婦人はにっこり笑うと、紙袋に手を入れ、新しいきゅうりを一本取り出した。そしてそれを、みゆきのほうへ、すっと差し出した。


 車内の時間が止まった。


 三人ぶん向こうの男も、扉の脇の女も、こちらを見ていた。みんなが静かに、みゆきの次の一手を待っていた。


(──これは。入会の誘いだ)


 みゆきの心臓が跳ねた。


 受け取れば、たぶん、あたしは結社の一員になる。受け取らなければ、たぶん何も起きない。ただの、親切なお婆さんからのおすそ分けを断った女になる。


 あたしにはもう教団がある。睡眠教だ。教祖だ。二重信仰はまずい。きゅうり教に寝返るわけにはいかない。


 だが、みゆきの手は勝手に伸びていた。


 受け取って、しまった。


  ◇


 断れなかった理由を、みゆきはあとでこう分析している。あれは空腹だった。ジム帰りで腹が減っていた。それだけだ。信仰とは関係ない。たぶん。


 みゆきは観念して、きゅうりにかじりついた。


 ぽりぽり。


 ……うまかった。


 塩なんていらなかった。みずみずしくて、青くて、まっすぐで、世界一どうでもいい味がした。なのに、なぜか、しみじみうまかった。一日中、人の口の中を覗いて、ゲロを躱して、歯磨きの男を指導した、その果てに食べる塩なしきゅうりは、奇妙に五臓六腑にしみわたった。


 老婦人が満足そうにうなずいた。三人ぶん向こうの男も、扉の脇の女も、うなずいた。


 歓迎されている気がした。


(──まずい。あたし、入っちゃったかもしれない)


  ◇


 電車が初富に着いた。


 みゆきの降りる駅だ。立ち上がると、なんと老婦人も立ち上がった。同じ駅で降りる。


 ホームで老婦人は、みゆきに軽く会釈をして、夜のなかへてくてくと歩き去っていった。最後までひとことも話さなかった。なぜきゅうりなのかも、なぜこの線なのかも、結局、何ひとつわからなかった。


 みゆきは、食べかけのきゅうりを片手に、ホームに立っていた。


 わからない。何もわからない。だが、それでいいという気もした。世の中には、説明されないほうがいいものがある。きゅうり結社はたぶん、その筆頭だ。


 みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。


 **「新京成線、きゅうり結社、一両に三名を確認。塩なし丸かじり、相互に黙礼。会の目的・入会条件・経費処理、いっさい不明。なお勧誘を受け、うっかり入会した可能性あり(きゅうりは、うまかった)。評価:★★★★★。沿線最大の謎」**


 保存。


 みゆきは残りのきゅうりを、ひとくちで食べきった。


 明日もたぶん、何かが乗ってくる。ゲロか、歯磨きの男か、きゅうりの誰かか。あたしはそれを最前列で見届ける。ときどき巻き込まれながら。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。そして本日付けで、きゅうり結社、新入会員(自覚なし)。


 今日も終電の一本手前。


 みゆきである。


(第5話 了)


---


*次回 第6話「池袋、レースの貴婦人」*



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