第4話 この辺、くさくないですか
第4話 この辺、くさくないですか
その夜、みゆきはジムの帰りだった。
エニタイムで一時間。ベンチプレスとラットプルダウンとトレッドミル。
ちなみに、みゆきの通うエニタイムにはシャワーがない。もともとない。だからどれだけ汗をかいても、その場で流すという選択肢がそもそも存在しない。みゆきは運動を終えると、火照った体のまま来たときの服を着て、そのまま電車に乗る。
そして家に帰っても、たぶんシャワーは浴びない。
(──あたしはあまり汗をかかない体質だ)
これはみゆきが長年自分に言い聞かせてきた、信仰のようなものである。汗をかいていない。だから洗わなくていい。家に帰って部屋着に着替え、そのままベッドにダイブする。それがいちばん合理的だ。髪なんて乾かしていたら夜が終わってしまう。
みゆきは風呂キャン勢である。
歯科医として衛生には人一倍うるさい。他人の口の中の歯石には夜も眠れぬほど心を痛める。だが自分の風呂となると話は別だった。人間は自分のことだけはいつも甘い。
ポケットの中でスマホが震えた。岡崎だった。
**「帰った? 風呂入った?」**
みゆきはげんなりした。岡崎はこうなのだ。
彼の中では「帰宅 → 即、風呂 → 飯 → 歯磨き → 寝る」が、全人類に共通の不変の手順ということになっている。電話していて、帰宅したはずのみゆきからしばらく衣擦れの音ひとつしなくなると、岡崎は必ず勘づく。「お前、今ベッドで固まってるだろ」と。そして「風呂、入れよ」と布教してくる。睡眠教の教祖が風呂教の信者に布教される構図だった。
みゆきが渋々入るのは三回に一回。今夜は入らない回だ。まだ電車の中だが、もう決めている。
**「これから帰る。汗かいてないから風呂はいい」**
**「ジム行ったやろ。なんで汗かいてへんねん」**
出た。エセ関西弁。岡崎はツッコむとき無自覚に関西になる。みゆきはそれを指摘しない。指摘すると止まってしまうから。
みゆきが返信を打とうとした、そのときだった。
◇
隣に立っていたスーツの男が、すっと顔を寄せてきた。
そして声をひそめて言った。
「……あの。この辺、くさくないですか」
みゆきの指が止まった。
時が止まった。
これは人類史上、最も答えにくい種類の質問だった。
くさいと答えれば犯人捜しが始まる。くさくないと答えれば嗅覚を疑われる。そして何より——みゆきには心当たりがありすぎた。
(──ジム帰りで汗だく。エニタイムにシャワーはない。家でも浴びてない。汗かいてない、はあたしがあたしについた嘘。風呂は二日入ってない。いや三日かも。昨日は入ったか? 入って……ない)
みゆきの信仰が、音を立てて揺らいだ。
(──犯人は……あたしか? あたしの体か? あたしは汗をかかない体質という、ありもしない教義を盾に、本日も世界に何かを撒き散らしながら回遊していたのか?)
◇
みゆきは誰にも気づかれないよう、そっと自分の肩に鼻を近づけ、ごくさりげなく嗅いだ。
わからない。
人間は自分の匂いには慣れる。これは嗅覚の順応という、れっきとした生理現象だ。歯科医のみゆきはそれを知っている。知っているからこそ絶望した。あたしにはあたしがくさいかどうか、永遠に判定できない。世界でいちばん確かめたいことが、世界でいちばん確かめられない。
もし、これに見出しをつけるなら、こうだ。『風呂キャン歯科医、車内にて異臭の容疑者となる』。
あたしはいつも、誰かを観察して★をつけている。なのに今夜は、あたしが、★をつけられる側にいた。それも、容疑者として。
◇
みゆきは慎重に答えた。
「……さあ。あたしはちょっとわからないです」
男は深刻な顔でうなずいた。そして何かを察したように、すっと二歩みゆきから離れていった。
みゆきはその二歩に致命傷を負った。
(──離れた。離れたということは。やはりあたしか)
いや待て、とみゆきは自分をなだめる。冷静になれ。発生源はほかにもあるはずだ。
みゆきは素早く車内を見渡した。
いた。斜め前で男がコンビニの袋から何かを取り出していた。湯気の立つ肉まん——ではなく、よく見るとそれはもっと香りの主張が強い何か。ニンニク的な何か。あるいはその隣の、濡れた傘の雑巾的な匂い。あるいは三人ぶん向こうの、誰かの足元。
容疑者はいくらでもいた。
だがそれはみゆきを安心させなかった。容疑者がいくらいても、あたしが無罪になるわけではないからだ。むしろこう思うのがいちばんこわい。
(──あの肉まんの男も今、隣の女がくさいんじゃないかって思ってるかもしれない)
みゆきは残りの区間、静かに地獄にいた。総武線がくさいのか。肉まんがくさいのか。傘がくさいのか。それともあたしがくさいのか。永遠にわからない。みゆきはこういう答えの出ない悲惨さに、いちばん弱かった。
◇
みゆきは思った。
こんなとき岡崎なら、絶対にこうはならない。あいつは帰ったら即風呂に入る男だ。一点の曇りもなく自分は無臭だと言い切れる男だ。
悔しいが、あいつの言う「帰宅 → 即、風呂」には、こういう夜への保険がかかっている。風呂とは明日の自分へのアリバイ工作なのだ。
みゆきはひとつ学んだ。
……いや、学んではいない。たぶん今夜も帰ったら入らない。学びと行動がこれほど結びつかない女も珍しい。それでも不思議と、歯だけは毎日磨く。二回に一回は磨きながら寝落ちするが。そしてほとんど口をゆすがない。
「ゆすぎすぎるとフッ素が流れる。あまりゆすがないほうが歯にはいいんだ」
これはみゆきの、数少ない本当に正しいズボラの言い訳である。だから岡崎が泊まった翌朝にキスをすると、なぜかみゆきの口から歯磨き粉の香りがして、岡崎が「なんでやねん」と突っ込んでも、みゆきは毅然とこう返せる。
「このほうが歯のためだ」
そして岡崎は黙る。みゆきの歯並びがめちゃくちゃ綺麗だからだ。小さい頃に虫歯だらけだった岡崎は、歯の話になると一度も勝ったことがない。
◇
電車が駅に着いた。あの肉まんの男が降りていった。香りも一緒に降りていった。
車内の空気がほんの少し軽くなった気がした。
(──ほら。あたしじゃなかった。たぶん。きっと。八割がた)
みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。
**「サラリーマン、『この辺くさくないですか』。発生源は肉まん・濡れ傘・自分の三つ巴。最有力容疑者は特定できず(自分を含む)。評価:判定不能。本日、最もいたたまれない一件」**
それからみゆきは岡崎に返信を打った。
**「やっぱ今日は風呂入る」**
**「なんかあったやろ」**
みゆきは答えなかった。沈黙に関しては達人だった。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。風呂キャン勢。本日、異臭事件の自称・第一容疑者。
今日はたぶん風呂に入る。三回に一回の、その一回だ。
今日も終電の一本手前。
みゆきである。
(第4話 了)
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*次回 第5話「沿線きゅうり結社」*




