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第3話 総武線、歯磨きの男

総武線は、東京でいちばん、人生がにじみ出る路線だ、とみゆきは思っている。


 黄色い、長い車体。終電が近づくほど、車内の人口密度と、アルコール濃度が、比例して上がっていく。誰かが寝ている。誰かが愚痴っている。誰かが、もう何かを諦めた顔で、つり革に、ぶら下がっている。みゆきは、この路線の、この、人生の煮こごりみたいな空気が、嫌いではなかった。


 その夜の総武線も、ほどよく、地獄だった。


 みゆきの、向かいの席に、一人の男が、座っていた。スーツ姿の、ごく普通の、勤め人。みゆきは、特に、気にしていなかった。


 男が、鞄から、何かを取り出すまでは。


 歯ブラシだった。


 みゆきの、職業的本能が、ぴくり、と、跳ねた。


 続いて、男は、歯磨き粉のチューブを、取り出した。慣れた手つきで、ブラシに、にゅっと、ペーストを絞り出す。そして、おもむろに、磨き、はじめた。総武線の、揺れる車内で。向かいに座る、歯科医の、目の前で。


 しゃか、しゃか、しゃか。


  ◇


 誤解のないように言っておくと、みゆきは、車内で歯を磨くこと自体を、責める気はない。


 歯を大事にするのは、結構なことだ。世の中には、三日に一回しか磨かない人間も、デンタルフロスを一度も使ったことがない人間も、ごまんといる。それに比べれば、終電前に思い立って磨きはじめるこの男は、むしろ、意識が高いほうだ。みゆきは、心の中で、星を、ひとつ、つけかけた。


 が。


 彼の、磨き方を、見た瞬間。


 みゆきの中で、何かが、軋んだ。


(──横磨きだ)


 彼は、歯ブラシを、ノコギリのように、横に、ごしごしと、引いていた。それも、全体重を乗せるような、力任せのストロークで。歯と歯ぐきの境目を、まるで、長年の恨みでもあるかのように、削っている。


(──だめだ。あんなに横に擦ったら、歯ぐきが、どんどん下がる。根っこが出て、十年後、絶対、知覚過敏で、泣く。だめだ。あれは、だめだ)


 歯医者は、人の口が開くと、つい、中を見てしまう生き物だ。職業病というより、もう、習性である。そして、間違った磨き方を見せられたときの歯科医の苦しみは、たぶん、ピアニストが、隣で素人に「猫ふんじゃった」を全力で外され続ける、あの感じに、近い。


 しゃか、しゃか、しゃか。泡が、立ちはじめた。


 みゆきの中で、二人の自分が、争いはじめた。


 一人は、達観した、観客のあたし。「黙って見てなさい。問いかけは、劇を壊す。これは上演なのよ」。


 もう一人は、職業人としての、歯科医のあたし。「あの歯ぐきが、死ぬ。今、目の前で。あんたが見過ごした、せいで」。


  ◇


 歯科医が、勝った。


 みゆきは、気づいたら、口を、開いていた。


「あの……それ、横にゴシゴシは、だめです」


 男が、口を、泡だらけにしたまま、みゆきを、見た。


 そして、車内の、全員が、みゆきを、見た。


 寝ていた人まで、薄目を、開けた。総武線の、煮こごりみたいな空気が、一瞬で、こちらに、向いた。


(──やってしまった)


 観客が、舞台に、上がった瞬間だった。あたしは、変な人を、観察する側のはずなのに。なぜか、いつも、自分が、その夜いちばんの、変な人になる。


 だが、もう、止まらない。乗りかかった船だ。歯ブラシも、抜けない。


「歯ブラシは、鉛筆みたいに、軽く持ってください。鉛筆です。グー握りじゃなくて。──そう。それで、毛先を、歯と歯ぐきの境目に、四十五度で、当てて。あとは、小刻みに、こちょこちょ。力は、いりません。ぜんぜん、いりません」


 男は、口を泡だらけにしたまま、こくこくと、頷いた。


 そして、言われたとおり、ブラシを鉛筆持ちにし、四十五度に傾け、小刻みに、動かしはじめた。


 ……正しい、ブラッシングだった。


 みゆきは、なぜか、満足した。深い、職業的な、達成感があった。あの歯ぐきは、救われた。総武線で、見ず知らずの男の、歯肉退縮を、一件、未然に防いだ。歯科医療は、診療室の外にも、ある。


  ◇


 だが、問題は、ここからだった。


 彼は、口の中に、大量の、泡を、抱えている。


 この泡は、どこへ、行くのか。


 みゆきは、ふと、冷静になった。総武線に、洗面台は、ない。窓は、開かない。ゴミ箱も、撤去されて久しい。この、白い泡の、行き先が、ない。


 まさか、飲むのか。あるいは、床か。それとも、開いた口のまま、終点まで、耐えるのか。みゆきは、自分が指導してしまった手前、急に、責任を感じた。あたしが、この泡を、生んでしまった。


 車内に、奇妙な、緊張が、走った。みんなが、固唾を、のんでいた。歯磨きの男の、口の中の泡の、ゆくえに、総武線の一車両が、無言で、注目していた。


 男は、おもむろに、鞄に、手を入れた。


 そして、取り出した。


 空の、ペットボトルを。


 彼は、その口に、丁寧に、ぺっ、と、泡を、吐き出した。品よく。一滴も、こぼさず。


 彼は、すべてを、準備していた。


 みゆきは、感動した。技術は、落第だった。だが、心構えは、満点だった。携帯用歯磨きセットに、吐き出し用の空ボトルまで完備しているこの男は、車内歯磨きの、プロフェッショナルだった。流派が、間違っていただけで。


  ◇


 ところが。


 男は、まだ、終わらなかった。


 ペットボトルを仕舞うと、彼は、再び、鞄に手を入れ、次なる装備を、取り出した。デンタルフロスだった。続いて、マウスウォッシュの、小瓶。そして、舌ブラシ。


 みゆきは、悟った。


(──この人、フルコースだ)


 彼は、総武線の揺れる車内で、フロスを通し、マウスウォッシュで口をゆすぎ(吐き出しは、当然、ボトル)、最後に、舌まで、磨いた。一連の動作には、よどみが、なかった。毎晩、ここで、やっているのだ。総武線の、この席が、彼の、洗面所だった。


 みゆきは、もう、何も言わなかった。フロスの持ち方には、まだ言いたいことがあったが、やめておいた。一度に、一つでいい。彼は、また来る。あたしと、彼は、たぶん、これから、何度も、この路線で、すれ違う。指導は、長期戦だ。


 男は、すべてを終えると、すっきりした顔で、目を、閉じた。


 みゆきの中の、教祖が、静かに、うなずいた。


(──こいつ、寝たな。歯を磨いてから、寝る。理にかなっている。きれいな口で、救われる気か。なかなか、信心深い)


  ◇


 みゆきは、スマホを取り出し、「車内遭遇録」を、開いた。


 **「総武線、車内フルオーラルケアの男。歯磨き・フロス・マウスウォッシュ・舌磨き。吐き出し用ボトル持参。技術は横磨きで落第。だが準備は満点。指導済み(一回ぶん)。評価:★★★☆☆。次回、フロスの持ち方を指導する」**


 保存。


 みゆきは、つり革につかまったまま、向かいで眠る、清潔な男を、眺めた。


 歯を磨いてから眠れるあの男は、たぶん、あたしより、まともな大人だ。あたしは今夜、ゲロを躱す前提で家を出て、知らない人の歯ぐきの心配をして、初富まで、眠れずに帰る。どっちが、変な人かなんて、もう、わからない。


(──まあ、いい。あたしには、布団がある。歯は、家で、磨く)


 電車は、夜の千葉へ、揺れていく。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、車内で他人の歯みがき指導、一件。


 今日も、終電の、一本手前。


 みゆきである。


(第3話 了)


---


*次回 第4話「この辺、くさくないですか」*



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