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第2話 車掌は、ダックスフンド

第2話 車掌は、ダックスフンド


 その夜の電車には、車掌が二人いた。


 一人は当然、本物の車掌。もう一人は犬だった。


 扉のそばに車椅子の人がいた。膝の上に犬用の肩掛けバッグを載せている。そのバッグの口から、ひょこ、と長い顔が出ていた。


 ダックスフンドだった。茶色いつやつやした立派なダックスフンド。バッグから顔と前足だけを出して、まるで車掌のように車内をぐるりと見渡している。次は終点、お忘れ物のなきよう——とでも言いそうな、堂々たる検分ぶりだった。


 みゆきと目が合った。


 ダックスフンドはみゆきをじっと見た。それからおもむろに、大きくあくびをした。


 ちいさな白い歯が並んでいた。


(──歯石、ついてないな。歯肉もきれいなピンク。この飼い主、ちゃんと磨いてあげてる)


 みゆきは思わず職業的に感心した。


 犬の歯を磨くのは簡単ではない。嫌がる。暴れる。多くの飼い主が途中で諦める。なのにこの犬の歯ぐきは、健康な薄い桜色をしていた。毎日誰かが面倒くさがらずに、この口の中に指を入れている。


(──毎日ちゃんと愛されてるな。歯を見ればわかる)


 みゆきは歯医者だ。人の歯も犬の歯も、見ればその奥にある暮らしが、だいたい透けて見える。サボられた歯。急に磨きはじめた歯。長く愛された歯。歯は嘘をつかない。


  ◇


 車椅子の人の手が、バッグの中の犬の背にそっと置かれていた。


 信号待ちか何かで、電車がゆっくりひと揺れする。そのたびにその手は、犬がずれないようにほんの少しだけ力を加える。犬のほうも当然のように、その手に体を預けている。言葉はない。確認もない。ただ、長いあいだ一緒にいた者だけが持つ、無言の信頼のやりとりだった。


 みゆきはその手を見ていた。


 見ているうちに、不意に胸の奥がきゅっとなった。


 おはぎを思い出したのだ。


  ◇


 おはぎはみゆきの犬である。


 真っ白でふわふわでまんまるで、雲がそのまま犬になったようなビションプー。名前はおはぎ。あんこ色ではないのでどう見ても大福だが、それはこの際関係ない。


 関係があるのは、おはぎが今ここにいない、ということだ。


 おはぎは初富の実家にいる。雑司ヶ谷の部屋ではない。みゆきの隣ではない。


(──あたしが忙しすぎるからだ)


 週に二十四時間を電車で生きる回遊魚に、犬は飼えない。正確には、飼うことは飼える。だが、留守番させる時間が長すぎる。朝に出て終電前に帰る。それも毎日ちがう海へ。そんな暮らしの部屋に白い小さな生き物をひとり置いておくのは、みゆきにはどうしてもできなかった。


 だから預けた。実家に。両親に。


 自分のいちばんの癒やしを、自分の手の届かないところに置いた。おはぎのために。おはぎが毎日、誰かにちゃんと見てもらえるように。


 立派な判断だった、と思う。思うのだが。


(──たまに後悔する。あの白いのを千葉に置いてきたこと)


  ◇


 しかも、である。


 みゆきが手放したおはぎを、いちばん可愛がっているのが父だった。


 あの寡黙で厳格で、診療所では絶対に笑わなかった父が、毎朝おはぎを散歩に連れていき、毎晩ささみを茹でてやり、「おはちゃん、おはちゃん」と聞いたこともない猫なで声を出しているらしい。


 みゆきが週末に帰ると、おはぎはもちろん喜ぶ。喜ぶのだが、夜になると当然のように、父の布団のほうへてこてこ歩いていく。


(──あたしの犬なのに)


 みゆきは毎回、ほんの少し面白くない。


 あたしが名前をつけた。あたしが選んだ。あたしの唯一の癒やしのはずだった。それが今や、引退した父の第二の人生の生きがいになっている。


 みゆきはおはぎに、いい暮らしをさせたかった。させている。たぶん、雑司ヶ谷の散らかった部屋でゲロくさい女の帰りを待たせるより、ずっといい。


 わかっている。わかっているのだが。


(──いい暮らしをさせるって、こんなに寂しいものなのか)


  ◇


 電車が駅に着いた。


 車椅子の人が降りる支度を始めた。バッグの中の車掌は、検分を終えたとでもいうように、すとん、と顔を引っ込め、丸くなった。


 扉が開く間際、車椅子の人がふと、みゆきのほうを見て小さく会釈をした。みゆきの視線にずっと気づいていたらしい。みゆきも慌てて会釈を返した。


「……かわいいですね」とは言わなかった。みゆきの流儀だ。問いかけは劇を壊す。


 だが車椅子の人は、降り際にひとことだけ言った。


「この子、電車、大好きなんです。揺れると、よく寝るから」


 扉が閉まった。


 みゆきはしばらく、その閉まった扉を見ていた。


(──揺れると、よく寝る)


 みゆきの中の教祖が、静かにうなずいた。


 あの犬は睡眠教徒だ。それも生まれながらの。揺れる箱の中で、信頼できる手に背を預けて堂々と救われている。みゆきが毎晩、眠れないまま見上げているその境地に、あの茶色い車掌はいとも簡単に達していた。


 みゆきは心の中で星をつけた。


 **「車椅子の膝、バッグから顔を出すダックスフンド。歯石なし。毎日愛されている歯。揺れると寝る、生粋の信徒。評価:★★★★★。本日いちばん、まともな乗客」**


  ◇


 みゆきはスマホを取り出し、ビデオ通話をつないだ。


 深夜だ。たぶんもう寝ている。それでもかけた。


 数コール。画面がぼうっと明るくなる。映ったのは、パジャマ姿の父の寝ぼけた顔。その腕の中に、白いもちもちしたかたまりがいた。


「……どうした、こんな時間に」


「おはぎ、見せて」


 父は何も言わず、カメラを犬のほうへ向けた。


 おはぎは半分、目を閉じていた。みゆきの声に片耳だけ、ぴくっと動かす。それから、世界でいちばんどうでもいいことを聞いたという顔で、ふあ、とあくびをして、また目を閉じた。


 塩対応である。完全な。


「おはぎぃ」とみゆきの声がだらしなく溶けた。「ママだよぉ。今日もママ、電車でゲロ見たよぉ。犬の車掌にも会ったよぉ」


 おはぎはもう聞いていない。父の腕の中で、白い腹をゆっくり上下させている。


 みゆきはその、まったく取り合ってくれない寝顔をしばらく見ていた。


 寂しさが半分。それからもう半分は、よくわからないあたたかいもの。


(──いいんだ。あたしの声で起きないくらい、安心して寝てるなら)


 それがいちばん、いい暮らしの証拠だ。歯を見ればわかるのと同じだ。あの寝顔を見ればわかる。おはぎは毎日ちゃんと愛されている。


 たとえ愛しているのが、あたしの手の届かないところでも。


「……父さん。おはぎの歯、ちゃんと磨いてる?」


「磨いてるに決まってるだろ。お前に似て、口だけは達者だからな、この子は」


「それ、誉めてる?」


 父は答えずにふっと笑って、通話を切った。


 みゆきは暗くなった画面を少しのあいだ見つめてから、ポケットにしまった。


  ◇


 電車はまた、初富へ向かって揺れている。


 みゆきはつり革につかまったまま、欠伸を噛み殺した。


 あの車掌のように、揺れに身を任せてすとんと眠れたら、どんなにいいだろう。だが教祖はまだ、起きていなければならない。降りる駅がある。守るべき聖域がある。布団が待っている。


(──明日もたぶん、何かが乗ってくる。でも今夜はまあ、悪くなかった)


 歯石のない白い歯。揺れると眠る茶色い車掌。あたしの声で起きない白い大福。


 みゆきは窓に映る自分の顔を見て、ほんの少し笑った。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。そして、千葉に犬を一匹預けている女。


 今日も終電の一本手前。


 みゆきである。


(第2話 了)


---


*次回 第3話「総武線、歯磨きの男」*



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