第1話 ゲロは三歩で躱せる
第1話 ゲロは三歩で躱せる
乗った瞬間にわかった。
ドアが閉まりきる前の、あの〇・五秒。車内の空気がふっと粘度を増す。蛍光灯の白がやけに青く見えて、つり革がぜんぶ同じ方向に傾いている。
(──ゲロ前夜だ)
みゆきは心の中でそう呼んでいる。長い年月をかけて培われた第六感のようなもので、当たってほしくないのに外れたことがない。
案の定だった。
みゆきと同じドアから滑り込んできたスーツの男。乗り込んだ勢いそのままに、彼は手すりへ向かって深々とお辞儀をした。礼儀正しいわけではない。次の瞬間、彼の口から本日の宴の全工程が、おおよそ時系列の逆順で床へと回帰した。
みゆきは三歩、退いた。
考えて出した距離ではない。反射である。
(──ゲロは三歩で躱せる)
これはあたしが四十年かけて体に刻んだ、数少ない実用的な真理のひとつだ、とみゆきは思っている。学校では教えてくれない。歯学部でも教えてくれなかった。だが終電前のこの国で生き延びるには、フッ素の話よりよほど役に立つ。
ぴしゃ、と音がした。男の靴の上で何かが完成した。
今夜は三歩で足りた。みゆきはふう、と息を吐いた。
四十歳。独身。歯科医師。今日も終電の一本手前。
みゆきである。
◇
話を整理しておかなければならない。なぜ四十の女が、平日の夜十一時半に、他人のゲロを真顔で見下ろしているのか。
みゆきは歯科医だ。それも、ひとつの場所に腰を据えたまっとうな歯科医ではない。**回遊魚**である。
週の半分は千葉の端、初富の実家の歯医者にいる。今年、父から引き継いだ小さくて古い診療所だ。残りの半分は都心へ戻り、練馬の歯科医院で歯を削り、合間に川越まで訪問診療に出かける。拠点は雑司ヶ谷。家から職場から実家まで、みゆきの一週間はゴムひものように毎日伸び縮みしている。
計算したことがある。一日平均、三時間半。週にして二十四時間。
(──あたしは文字どおり、週に丸一日を電車の中で生きている)
だから出くわす。ゲロにも、変な人にも、悲惨にも。人よりはるかに高い確率で。同僚の歯科衛生士の田辺さんは、二十年通勤して一度もゲロ車両に当たったことがないと言う。その話を聞いたとき、みゆきは田辺さんが妖精に見えた。
もはや当たるとか引くとかではない。
(──あたしが乗ると、始まる)
そういう説すらある。
◇
ゲロの男は座席にぐったりともたれ、半開きの口で荒い息をしていた。
みゆきはその口の中を、つい見てしまう。
(──前歯、ヤニで真っ茶色。下の前歯の裏、歯石。歯ぐきも腫れてる。この人、何年も歯医者に来てないな)
靴を汚した本人より、その歯のほうが気になってしまうのは職業病である。みゆきは男に近づきもしないまま、心の中で星を二つつけた。
(──被害は出したが、逃げなかった。逃げなかったのは偉い。あと、歯石、取りに来い)
みゆきのスマホには「車内遭遇録」というメモがある。二〇一九年からずっとつけている。最初はつらさを吐き出すための場所だった。だが五年も書き続けるうちに、ほとんど学術的な観察記録になった。みゆきはこれを密かに「都市生活者の異常行動に関する縦断研究」と呼んでいる。論文を書くつもりはない。だが、書けるくらいのデータはある。
みゆきは親指を動かした。
**「ゲロ。乗車三秒。三歩で回避。標的の歯石は重度。評価:★★☆☆☆」**
保存。今夜の一件目が記録された。
◇
車両を見渡すと、いつものように眠っている人々がいた。
吊り革に体重を預けて舟を漕ぐ者。座った瞬間に意識を手放した者。見知らぬ隣人の肩を勝手に枕に変えている者。終電前の車内は、こういう眠れる者たちで満ちている。
みゆきは彼らを尊敬の目で見る。
なぜなら、みゆきは**睡眠教**の教祖だからだ。
信者はたぶん、まだあたし一人。教義はひとつ。「**眠るモノは救われる**」。布教対象は出会う人すべて。睡眠は人類最後のセーフティネットであると、みゆきは事あるごとに説いている。
なのに教祖であるみゆき自身が、いちばん眠れない。
休みは原則、第二と第四の水曜だけ。あとは数少ない祝日。祝日のない月は十三連勤が当たり前。とりわけ祝日が一日もない六月を、みゆきは心の底から憎んでいる。
(──六月に祝日がないのは立法の不作為だ。あたしが政界に出たら、まず六月に祝日を作る。ついでに昼休みのシエスタを全企業に義務づける。党名は睡眠党。政策の二枚看板だ)
そんな野望を抱きながら、みゆきは今日も眠っている乗客たちを羨望と敬意で眺める。寝顔は祈りの相。いびきは聖歌。乗り過ごしは殉教である。
あの人たちは先に救われている。あたしはまだ、初富に着くまで起きていなければならない。教祖がいちばん信仰を実践できていない。
(──まあいい。あたしには布団がある)
雑司ヶ谷の部屋には、足の踏み場が布団のぶんしかない。仕事の書類と服が床を埋め、冷蔵庫の横には五年分の段ボールタワーがそびえている。それでも布団の上だけは聖域だ。睡眠教の、たったひとつの祭壇。
◇
ポケットの中でスマホが震えた。岡崎だった。
岡崎は一つ年下の元彼だ。別れたのか別れていないのか、自分たちでもよくわからない関係が、もう三年ほど続いている。月に二、三度、雑司ヶ谷に泊まりに来ては、なぜかみゆきの分まで朝ごはんを作る。出汁から味噌汁をひく男だ。そのくせ肝心なことは何ひとつ決めない。
**「今、雑司ヶ谷。鍋作った。帰る?」**
みゆきはゲロの男を横目に、返信を打った。
**「無理。今日は初富。おはぎのとこ泊まる」**
既読がすぐについた。
**「また家跨いでんのか。お前ほんま回遊魚やな」**
みゆきはその「ほんま」と「やな」を見逃さなかった。
岡崎は生まれも育ちも東京だ。なのに、ふとした拍子にエセ関西弁が漏れる。本人は無自覚らしい。みゆきはいつも指摘しない。指摘するとたぶん止まってしまうから。岡崎は知らない。あたしだけが知っている。
**「鍋は一人で食え。おはぎによろしくは、おはぎに直接言え」**
おはぎは犬である。真っ白でふわふわでまんまるで、雲がそのまま犬になったような姿をしている。なのに名前はおはぎ。みゆきが付けた。「まんまるで、もちもちしてそうだから」。だが、あんこ色ではない。どう見ても大福である。よく見れば雪見だいふくだ。おはぎ要素は、色に関して完全にゼロ。
今ごろ初富の実家で、父の足元ですやすや眠っているはずだ。
(──いいなあ。おはぎは生まれながらの睡眠教徒だ)
みゆきは画面の中の自分の返信を見て、少しだけ笑った。
◇
電車がゆっくりと動き出す。
ゲロの男は次の駅で駅員に引き取られていった。両脇を抱えられ、申し訳なさそうに頭を下げながら去っていく後ろ姿には、ある種の人間的な品があった。みゆきは星二つを星二つ半に、こっそり上方修正した。
窓の外を夜が流れていく。住宅の灯り。コンビニの看板。閉まった商店街。みゆきはつり革につかまったまま、それをぼんやり眺める。
今日もよく働いた。歯を削って、入れ歯を直して、ゲロを躱して、星をつけた。明日は第何水曜でもないから当然、仕事だ。連勤はまだ続く。
それでも、とみゆきは思う。
(──明日もたぶん、何かが乗ってくる。ゲロか、きゅうりの老人か、まだ見ぬ誰かの何かが。あたしはそれを最前列で見届ける。運の悪い、あるいは運の良い観客として)
とりあえず今は、初富まであと少し。
布団があたしを待っている。
みゆきは欠伸を噛み殺した。
教祖はまだ、眠れない。
(第1話 了)
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*次回 第2話「車掌は、ダックスフンド」*




